昭和20年8月14日の夜中、玉村町は空襲を受けました。死傷者が出て、翌15日は煙が立ち上るなか、玉音放送が流れました。
話はさかのぼります。昭和初年は世界的な恐慌の影響で、繭の価格が大幅に下がり、多くの農村が苦しみました。その反面、都会では洋服・映画・雑誌などにアメリカ文化が溶け込んでいました。一方、対外的には中国における利権をめぐって既にアメリカと対立していました。険悪なムードの中、アメリカの世界児童親善協会から「青い目の人形」が全国各地に贈られました。のちに敵製品として半強制的に焼却されましたが、処分を忍びなく思った人々によって隠され、戦後に学校で発見された人形もありました。玉村小学校の「ルースちゃん」も、その一つで現在にまで引き継がれてきました。
戦争がはじまると玉村町出身の兵士は中国大陸(含む近海)・ニューギニア・フィリピン・ビルマ(現ミャンマー)などで戦いましたが、約600人の兵士が命を落としました。
戦中は国全体の動員が要請されました。兵士だけではなく、非戦闘員も戦争遂行の体制に組み入れられました。防諜(スパイ)の監視体制、大日本婦人会の設置、物資の供出、貯金・戦争国債購入と勤労奉仕の強制が行われました。
やがて大都市の空襲が激しくなると玉村町内の寺院・民家にも学童集団疎開が行われました。しかし8月14日の夜中、B29の空襲により伊勢崎・高崎周辺、そして玉村町が被害をうけました。
これほどの被害を受けても玉村町の具体的な被害状況について当時の日米両軍の報告書に記載はありません。その後地元で詳細な報告書が刊行されましたが、このように地元で伝えつづけていかないと忘れ去られてしまうことになります。来年の終戦70年を控え、玉村町の戦争での記録を残すためにもこの企画展を開催したいと思います。展示資料は青い目の人形、幻の坂東飛行場・陸軍特別大演習・高崎歩兵第十五連隊関係資料、衣料切符など銃後における資料、焼夷弾などを予定しています。
なお、加部二生氏による満鉄コレクションの一部から南満州鉄道も紹介します。