2018(平成30)年は藤田嗣治の没後50年にあたります。これを記念して西宮市大谷記念美術館では、藤田の画業の中でも挿絵を中心に紹介する展覧会を開催いたします。
1886(明治19)年陸軍軍医の次男として東京に生まれた藤田嗣治は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋画科で学んだ後、1913(大正2)年フランスに渡ります。1919年にサロン・ドートンヌに出品した6点はすべて入選し、翌々年同展に出品した作品が人気を博し、パリ画壇での評価を確立しました。エコール・ド・パリの代表的な画家として活躍し、とりわけ1920年代初頭に発表した乳白色の肌をもった裸婦像は藤田独自の表現として当時のヨーロッパで高い評価を得ました。1929年17年ぶりに日本に帰国しましたが翌年にはパリへ戻ります。その後1932年に中南米を回り、1933年に日本に帰国。1939年~40年に渡仏しますが、第二次世界大戦中は日本で制作活動を続けます。大戦後はアメリ力経由で1950年にフランスに渡リました。1955年にフランス国籍を取得し、その後は日本に戻ることなく1968年スイスのチューリッヒで亡くなりました。
フランスで画家としての地位を確立した藤田は、絵画だけでなく挿絵本の仕事にも積極的に取り組みました。ヨーロッパでは挿絵本の歴史は古く、書物としてだけでなく芸術作品としての価値も有していました。特に19世紀後半から20世紀にかけて、希少性の高い挿絵本は愛書家たちの収集対象となっていました。藤田がパリに渡った当時のヨーロッパは挿絵本の興隆の時代であり、ピカソやシャガールらによる挿絵本が出版され、その人気は高まる一方でした。1919年、藤田嗣治は初めての挿絵本『詩数篇』を手がけます。藤田は生涯を通じて50冊を超える挿絵本をフランスで手がけ、30点以上が1920年代に出版されました。すでに挿絵を手がけていた他の画家たちをも凌駕するこの仕事量は、当時のフランスでの藤田の人気を反映したものであると同時に、藤田自身が挿絵本の世界に魅せられていたことを物語っています。
本展では戦前のフランスで発行された藤田の挿絵本、1930年代から40年代の日本での出版に関わる仕事、1950(昭和25)年フランスに移住した後の大型豪華本の挿絵などの「本のしごと」を中心に、絵画や版画といった「絵のしごと」、さらには藤田が友人に送ったハガキや絵手紙、手作りのおもちゃ、陶芸作品なども同時に展示し、藤田の幅広い制作活動を紹介いたします。
なお、本展覧会は当館での開催後、目黒区美術館(東京)、ベルナール・ビュフェ美術館(静岡)、東京富士美術館(東京)へ巡回いたします。当館の独自企画として「藤田嗣治と関西」というテーマ展示を予定しております。藤田の関西での仕事、関西の芸術家たちに与えた影響などを検証します。