江戸時代の建物である、山﨑家の茶室と庭園をこの秋、期間限定で公開します。
※ 公開時間:午前9時~午後4時※雨天、荒天時は公開中止
□山﨑家茶室・書院
江古田村付近は、将軍家の鷹狩場でした。近くの東福寺は、そのための休憩所(御膳所)として利用されていました。山﨑家の「茶室」は、下調べのために来村した役人が立ち寄ったといわれています。この建物は天保12(1841)年に「離れ」として建てられ、主屋と長い渡り廊下で繋がれていました。後に主屋を取り壊し、住まい部分をつなげて増築し一軒の家としました。「旧山﨑家離れ」は、茶室(6畳)と書院(8畳)、座敷(6畳)で構成されていますが、茶室には炉が切られておらず、茶湯は風炉で点てられていました。小屋組をみると、元は茅葺き屋根であったのを瓦に葺き替えられたと考えられていますが、その時期ははっきりとしません。なお現在の屋根材は平成17(2005)年の補修工事の際に鉄板葺きとなりました。
□山﨑家の由来
山﨑家の歴史は、寛延3(1750)年に初代喜兵衛が本家から独立したことに始まります。農業のかたわら質屋の営業、のちに醤油醸造にも進出し、江戸近郊で有力な商家となりました。代々喜兵衛を名乗り、その隆盛ぶりは江戸の文人たちの紀行文にその名が記されたほどでした。千駄木に支店を持っていた縁もあり、家業が最盛期を迎えていた文化文政期に山﨑家が江戸で買い求めた衣食住の道具類は、現在も『山﨑家資料』として伝来しています。また、江古田村内での存在感も大きく、3代目のときには江古田村丸山組の名主となりました。4代目の活躍期には江戸庶民文化が花開き、近郊農村にもその影響が広がりました。5代目の早世のため18歳で家督を継いだ6代目は、天保飢饉(天保4~10年)や幕末の政情不安のなか、名主としての重責を果たし家業を守りました。維新後は官選の名主、戸長を経て、東京府会議員、野方村長などを勤めました。家業は7代目松太郎に引き継がれますが、明治期に醤油醸造業をやめ、明治31(1898)年には製粉業経営に転じました。当館の建つ土地と貴重な資料群を寄贈したのは、名誉都民である8代目喜作氏です。