長い髭を生やした印象もあって‘好々爺’という文脈で紹介される事も多い守一。本展では別の一面に迫っていきます。
会場は年代別で3章構成。1章は「闇の守一:1900-10年代」で、広く知られている守一のイメージとはかなり異なる作品が並びます。
若き日の守一が関心を寄せていたのは、光と影。列車への飛び込み自殺に遭遇した守一が描いたのが《轢死》(1908年 岐阜県美術館)です。経年による暗色化で判別しにくくなりましたが、闇夜の女性の亡骸が燈火で照らされます。
守一は日記の中で、この作品を90度回転させた事に言及しています。横たわった女性が、再び生き返るような視覚的なトリック。後に長女の作品で繰り返す事となります。
1章「闇の守一:1900-10年代」2章は「守一を探す守一:1920-50年代」。二科会で活躍し、海や山に出かけて多数の風景画を制作。裸婦も数多く手掛けています。後の作品の特徴となる「赤い輪郭線」が出てくるのは1940年前後です。
私生活では5人の子どもに恵まれた守一ですが、長男と三女は早世。長女の萬も21歳で亡くなります。病床の萬を縦位置にした作品が、《轢死》をふまえたものです。
独自の道を歩んだように感じられる守一ですが、実は海外の画家にも関心を寄せていました。《ヤキバノカエリ》はアンドレ・ドランの影響が顕著。「アンリ・マティスは嫌い」と述べていましたが、モチーフの配置などにマティスとの関連性が見てとれます。
2章「守一を探す守一:1920-50年代」3章は「守一になった守一:1950-70年代」。一般に良く知られるのは、この時期の作品です。
70代半ばで身体を壊して以降は、あまり外に出られなくなった守一。自宅の庭の花や虫が主題になりました。ただ、庭で描くのはスケッチのみで、油彩は夜のアトリエでじっくり行っていました。
この時期の作品は極端に単純化されていますが、じっと見ていると動き出すように感じるものもあります。守一は早い時期から光や色彩の性質について学んでおり、人の眼の特性も踏まえた上で、絵の構成を工夫していたのです。
同じモチーフを繰り返し描く事も多い守一。この章には、壁一面に猫の作品が並ぶ展示室もあります。
3章「守一になった守一:1950-70年代」91歳の時に「みなさんにさよならするのはまだまだ、ごめん蒙りたい」と語っていた守一。穏やかな作品のイメージとは異なり、燃え上がるような創作への情熱を持ち続けていました。
1977年に97歳で死去。旧宅跡地に建つ豊島区立熊谷守一美術館では、常設で熊谷守一の作品を展示しています。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2017年11月30日 ]■熊谷守一 生きるよろこび に関するツイート