京都の裕福な呉服商・雁金屋に生まれた乾山。芸術はいつも身近にあり、文化的な素養は自然と育まれていきました。
まず会場は、乾山以前の京焼の紹介から。乾山焼は伝統的な京焼である押小路焼や仁清などの流れを受けるとともに、雁金屋で身に着いた町衆の美意識も取り込んで、大きく花開いていきました。
1章「乾山への道」野々村仁清から作陶を学んだ乾山は、1699年に京都の北西・鳴滝泉谷に窯を築き、陶工としての活動を開始。ちなみに「乾山」は、京から見て北西=乾(いぬい)の方角にあたる事から命名されました。
初期に多く作られたのが、絵画のような角皿。器を絵で飾るのではなく、絵そのものを器にしてしまったような発想です。
2章「乾山颯爽登場」京焼には「写し物」の伝統がありますが、乾山も「写し」を手がけています。ただ、オリジナルをコピーするだけではなく、自らの美意識で再構成するのが乾山流。中国や東南アジアはもちろん、遠くヨーロッパからのデザインも取り入れて、新たな意匠を創り上げていきました。
乾山が手掛けたうつわの中でも、特に個性的なのが「蓋物」。陶器には不向きの丸みを帯びた形は、籠から着想したとも言われており、ジャンルに拘らない乾山のスタイルが見てとれます。
3章「写し」、4章「蓋物の宇宙」1712年に京都市中に窯を移した乾山、ここでは多くの懐石道具を作っています。器全体で水流を表現したような鉢や、紅葉や菊の形で切り取った小皿など、文学の要素も取り入れた斬新なデザインを次々に世に出していきました。
晩年の乾山は江戸に下った後、1743年に死去。京都の窯は養子が継ぎましたが、その系譜は途絶えます。ただ、半世紀以上後に酒井抱一が再評価し、その流れは近代の陶工にも継承されました。実は幕末の大老・井伊直弼も傍系のひとり、会場には直弼の作品も展示されています。
5章「彩りの懐石具」、6章「受け継がれる『乾山』」サントリー美術館としては、年初に行われた「天才陶工 仁阿弥道八」展に続くやきものの展覧会。乾山の器で見られる文様を各所にあしらった、涼やかなデザインの会場でお楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年5月26日 ]