写実主義(レアリスム)への反動ではじまった象徴主義。時代は印象派とほぼ同時期ですが、光を求めて外に出た印象派に対し、象徴主義は内面の表現に向かいました。
同じ象徴主義のギュスターヴ・モローは聖書や神話の世界を描いたのに対し、カリエールは母子や家庭の情景など身近なテーマが主流です。その点では親しみやすいともいえますが、一方で独特の画風は神秘性を帯びています。
カリエールは20歳でエコール・デ・ボザールに入学、アレクサンドル・カバネルに師事します。初期はルーベンスやヴェラスケスからの影響を感じさせる重厚な画風でしたが、ターナーの作品と出会った事で大気と光への関心を強めていきました。
第1章「画家カリエールの誕生から最初の国家買い上げまで」(初期-1885年頃)カリエールは29歳で結婚。7人の子どもに恵まれ(ひとりは夭折)、家族の愛に包まれて過ごしました。妻や子どもが食事をしたり勉強したりする姿は、カリエールの十八番といえます。
「母性の画家」とも称されるカリエール。自身は男性ですが、温かな目線で描かれた作品からは、確かに母親のような愛情が感じ取れます。
第2章「母性、子どもたち、室内」(1885年頃-1890年頃)カリエールはオーギュスト・ロダンと進行がありました。ふたりはシャヴァンヌらとともに、保守的なサロンから分裂するかたちで、新たに「サロン・ナショナル」を設立。本展でもロダンを描いた肖像画が展示されています。
サロンからの独立以降は、著名人の肖像画や公共建築の装飾画なども制作。名声が高まるに連れ、公的な作品も増えていきました。
第3章「サロンからの独立、著名人の肖像」(1890年頃-1900年頃)1900年のパリ万博では、パヴィリオンのポスターを手掛けるほか、万博で開催された展覧会にも出品。1903年には「サロン・ドートンヌ」の設立に参加し、ルノワールとともに名誉会長に就任するなど、画壇の頂点として精力的に活動を続けました。
ただ、以前から患っていた喉頭がんがカリエールを襲います。1905年に二度目の手術を受けましたが、言葉を発する事ができなくなり、徐々に衰弱。1906年に57歳で死去、現在はモンパルナス墓地に眠っています。
第4章「晩年」(1900年頃-1906年)没後も高く評価され、生誕100年にはオランジュリー美術館で大規模な展覧会も開催されましたが、20世紀後半になると印象派への評価が高まる一方で、相対的に立場が弱まっていたのも事実。日本では2006年に「ロダンとカリエール展」が開催されて以来となります。
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館のみの開催で、巡回はありませんのでご注意ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年9月9日 ]■カリエール展 に関するツイート