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「知る」・・・名古屋のシンボル、金鯱に関するコラムです。

基本情報 / ルーツ / 歴史 / 逸話

基本情報

1.雌雄の違い
名古屋城の金鯱は雄(北側)と雌(南側)に分かれており、大きさや形が異なっています。
金鯱 雌雄の違い 写真

2.金鯱の形
金鯱の形 写真 名古屋城の金鯱は頭部が異様に大きく、近くで見るとバランスがおかしいようにも思えますが、これは遠くから眺めた時に均整がとれ立派に見えるように配慮されているためです。当時の名工が、棟上に飾る彫刻物として、遠望からの姿を配慮して作ったと考えられています。

3.金鯱の構造
創建当時の金鯱は、寄木の粗彫に、鉛板を竹釘で張り、その上に鱗型の銅板を銅釘で止め、その銅板に薄い金の延板をかぶせ張りにして作られました。鉛は木を冷やして汚れや傷を防ぐため、銅は雨よけのために使われました。張られた金の板は慶長大判を引き延ばしたもので、全部で1940枚分の大判、計320キログラムもの金が使用されていました。現代の金鯱は再建されたもので、ブロンズの原型に漆を焼きつけ、その上に“うろこ”が貼り付けられています。うろこは成型した銅板に厚さ0.15mmの金板が貼り付けてあります。



ルーツ

1.鯱の起源
鯱は古くから中国に伝わる伝説の海獣「シビ」から転化したといわれています。その「シビ」はインドの「マカラ」という神格化された想像上の動物が起源だという説もあります。昔、日本や中国では火災が起きると消化する方法が一切ありませんでした。そのため、すべてを焼き尽くす火災は人々から大変恐れられていました。そこで、剣鉾のような鋭いひれを持ち、虎のように凶暴で鯨まで切り裂いて食べてしまい、さらに泳げば大波を立てて雨を降らせると信じられていた「鯱」は高層建築の天守閣にうってつけの飾りでした。また、干ばつに苦しまないように天に一番近い建物の最上部に水に縁のあるものを置いたともいわれています。

2.日本における金鯱
日本における金鯱 画像鯱を最初に天守閣に載せたのは、織田信長の安土城と言われています。豊臣秀吉の大坂城や伏見城、徳川家康の江戸城、駿府城には金鯱が飾られていたようです。しかし、これらの天守閣は火災にあったり破壊されたりして、江戸中期頃には名古屋城だけが金鯱を持つ城となりました。





「御物 金鯱之図 明治八年京都大博覧会出品」(明治8年)遠藤茂平写図(名古屋城振興協会 所蔵)

3. 威光を示す金鯱
「天下様でもかなわぬものは 金の鯱ほこ あまざらし」
(東海道を行き来する旅人が、豪華な金鯱を雨ざらしにしている尾張様のご威光に感激した歌)

「宮の浜には魚が寄らぬ 金のしゃちほこ陽に光る」
(宮の浜とは熱田のこと。北の空に金鯱が光っているため魚が寄り付かないと唄われた歌)

金鯱が飾られた理由は美観を発揮し、城主の威厳を示すためでもありました。名古屋城は「尾張名古屋は城でもつ」と言われるほど天下に知られた名城です。そのシンボルである金鯱は、江戸時代の旅人がその豪華さを称える歌を残しているほか、金鯱が光っているため熱田の浜には魚が寄らないなどと歌われました。



歴史

1. 3度の鋳造
尾張藩の財政難の度に豊富な金が着目され、金鯱は3度も鋳造されています。

◇第1回 享保15年(1730)
天守閣修理と並行して、はじめての金鯱の改鋳を行う。金鯱の鱗の部分を鋳直し、純度の高い「慶長大判」から純度の低い金に取り替えた。

◇第2回 文政10年(1827)
天守閣東側の広庭に小屋をかけ、金・銅・鉛を吹直した。

◇第3回 弘化3年(1846)
3回にわたる改鋳の結果、鱗は薄くなり、多量の銀を混ぜたことにより金の純度は次第に衰えていきました。また、鱗の合わせ目の部分を半減したために、大風が吹いたときなど鱗が剥がれ飛ぶこともあったといいます。

2. 金網で囲われた金鯱
金網で囲われた金鯱 写真改鋳以外にも、金鯱は享保11年(1726)に頭部の芯木を取り替えています。また文政の改鋳の際には芯木のサワラ材をヒノキ材へと全面的に取り替えていますが、これは度重なる改鋳により、金の鱗が薄く、重なり合いも少なくなったため、雨水が浸透して芯木が朽ちてしまったためでした。またウロコの合わせ目に鳥が巣を作ったり、ついばんだりする被害も深刻だったようで、享保15年(1730)には鳥除けのために金網で覆われています。

3. 鋳つぶしの決定
明治2年(1869)、明治時代を迎えた日本では版籍奉還が行われ、尾張藩は名古屋藩へと改まりました。そして藩議で、名古屋城と金鯱を取り壊して、武士の帰農手当や城の跡地の整備費用にあてることが決定したのです。明治3年(1870)には正式に名古屋城の解体が決まり、金鯱は明治政府への帰順のあかしとして、宮内省へ献納することになりました。
江戸へ運ばれた金鯱を救ったのは、ドイツ行使のマックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠大佐です。かつて名古屋城天守閣を訪れ、そこからの風景と本丸御殿の襖絵に感動したというブラントは、政府と藩に対して金鯱の鋳つぶしや城の解体中止を勧告し、それが受け入れられました。明治11年(1878)には中村大佐が、陸軍卿の山形有朋に名古屋城と姫路城の保存を上申し、保存修築が決定したのです。

4. 博覧会への出品
博覧会への出品 画像明治5年3月、おりからの殖産興行政策のなか、東京本郷区の湯島聖堂で日本最初といわれる勧業博覧会が開催されることになり、金鯱も出品されることになりました。その際、つめかけた江戸っ子たちの人気を集め、驚異の的となったのが金鯱でした。明治6年5月には、オーストリアの首都ウィーンで開催された万国大博覧会に工芸使節として金鯱の雌が出品されました。金鯱はオーストリア人をも驚嘆させ、使節としての面目を大いにはたしました。一方、金鯱の雄の方は、石川、大分、愛媛、名古屋で開催された博覧会に相次いで出品され、やはり各地で人気を博したようです。その間、金鯱のない御城を仰ぎみる名古屋の人々の間では、金鯱の復旧運動が高まりをみせ、明治12年、8年ぶりで天守閣大棟に金鯱の雄姿が戻りました。

「東京名所三十六戯撰 元昌平坂博覧会」(明治5年)湯島聖堂博覧会 昇斎一景画(名古屋城振興協会 所蔵)

5. 戦争での焼失
戦争での焼失 写真 昭和20年5月14日朝、米軍機による空襲で落とされた焼夷弾が、金鯱を避難させるために組まれていた足場にひっかかって発火、色とりどりの炎と黒煙に包まれて焼失した天守閣とともに、金鯱も焼け落ちてしまいました。戦後すぐに名古屋城の再建を願う市民の動きがおこり、昭和34年10月には天守閣が再建されました。また、市民が再建を最も熱望していた金鯱の復元も大阪造幣局により進められ、同年8月に竣工間近の天守閣大棟に取り付けられたのです。







逸話

1. 鯱のぞき
鯱のぞき 写真名古屋城周辺には、金鯱の頭のてっぺんから鰭の先まで仔細にみるための遠眼鏡がありました。お堀端に据えられた遠眼鏡2基で金鯱をのぞくというものです。すぐ横には茶屋風の休憩所も用意され、使用料も「おこころざし」程度に徴収していたということです。これを設置したのは、戦災までこのすぐ近くにあった私立病院の、院長のお抱え人力車夫をしていた人物と言われています。

2. 柿木金助の伝説
創建当時、現代の価値で約4億円もの金を使用していたという金鯱は、怪盗伝説が芝居などで知られるほか、実際に幾度も盗難にあっています。

◇柿木金助の伝説
凧に乗って金鯱の鱗3枚を盗んだ怪盗、柿木金助の話は芝居などで知られています。天明3年(1783)に大坂で、初代並木五瓶作「傾城黄金鯱」が上演されてから、柿木金助は金鯱泥棒として、人々に知られるようになっていったようです。柿木金助は実在の人物ですが、実際に押し入ったのは名古屋城本丸の土蔵で、凧ではなくて舟をつかって逃走したと言われています。実際の金助はこれ以外にも、濃尾各地で悪事を重ね、宝暦13年(1763)8月21日、名古屋の町を引き回しのうえ、磔(はりつけ)獄門に処せられました。

3. 明治時代の盗難
◇明治4年(1871)3月
宮内庁への金鯱引き渡しの際、鱗3枚盗難。犯人、陸軍名古屋分営番兵は銃殺刑。

◇明治9年(1876)4月
東京博物館保管中に盗難。犯人は懲役10年の刑に処せられる。

◇明治11年(1878)
復元作業中に盗難。犯人は「陸軍の兵卒」とのことで、軍秘として処理されたらしく詳細は不明。

4. 昭和の柿木金助
昭和の柿木金助 写真昭和12年(1937)1月、名古屋離宮廃止による名古屋市への御下賜を受けた際の実測調査中に鱗58枚が盗難にあい、名古屋市長が引責辞任しました。
昭和12年1月6日朝、名古屋市建築局の技師は、いつもなら金色に輝くはずの金鯱に、何か黒い染みのような部分があることに気がつきました。調べると、雄の金鯱の胴体の金鱗110枚のうち、58枚が剥ぎ取られていました。恩賜 国宝名古屋城のシンボルである金鯱の鱗盗難事件に所轄署は色めきたち、愛知県刑事課では一切の報道を禁止(新聞の号外も出ると間もなく差し止めに)するとともに全国へ手配、大捜査を展開することになりました。
犯人は盗んだ金鯱の売り込み話から足がつき、同月27日、売却代金の受取に来たところを逮捕。公判の結果、犯人には懲役10年の実刑判決が下りました。

5. 初代金鯱の燃えがら
茶釜 写真第二次世界大戦で完全に焼失したと思われた金鯱は、実は残骸が見つかっています。燃えがらとして残った金鯱は進駐軍に貴金属として接収されますが、昭和42年(1967)3月、6.6キログラムの金塊として大蔵省から名古屋市に返還されました。市は初代金鯱へ寄せる市民の思いを考え、名古屋市旗の冠頭としてミニサイズの金鯱と、金の茶釜に加工することを決定したのです。ミニサイズの金鯱は実物の20分の1のサイズで、金メッキが施してあります。茶釜には環のところに小さな鯱がついており、側面には名古屋市の市章の「丸に八の字」の文様が入っています。