当館は過去15年にわたり、フォト・ジャーナリズムの歴史に偉大な足跡を残したアメリカ人写真家W・ユージン・スミス(1918-1978)の写真作品を収集してきました。これらの作品は、水俣公害の実態を共に記録し報道してきた、彼の伴侶でもあったアイリーン・美緒子・スミスが厳選して手元に保管してきたものです。約280点のコレクションは、初期の《第二次世界大戦》(1943-45)から最後のシリーズ《水俣》(1971-75)までの、スミスの写真家としての活動の全容をほぼ網羅しています。その大部分は印画の質に極めて厳格であったスミス自身がプリントが手がけた貴重なものであり、最終的に「アイリーン・スミス・コレクション」として京都国立近代美術館の所蔵となる予定です。
カンザス州に生まれたスミスは、18歳になった1937年にプロの写真家を目指してニューヨークに移りました。この時期は『ニューズウイーク』(1933創刊)や『ライフ』(1936創刊)などが爆発的に部数を伸ばし、グラフ雑誌とフォト・ジャーナリズムという新しいメディア・スタイルが登場し隆盛へと向かった時代です。スミスの写真家としての軌跡と業績は、フォト・ジャーナリズムの歴史と重ね合わせて評価・検証されてきました。
従軍写真家としてサイパン、硫黄島、沖縄の戦場を直視したスミスは、「私はカメラの向こう側にいたかもしれない」という、報道写真家としてはタブーとも思える根源的な疑問を受け入れてしまったと言えます。その体験はスミスに、「カメラ=中立的な視線」、「ジャーナリズム=客観的」というフォト・ジャーナリズムをめぐる神話に対する強い疑念を抱かせます。戦後のスミスは過剰な時間と労働を費やし緻密な取材を重ねることで、対象の本質に迫る、時にはそれを超える普遍性を追求するかのような、《カントリー・ドクター》(1948)、《スペインの村》(1950-51)、《慈悲の人シュヴァイツァー》(1954)、《ピッツバーグ》(1955-56)などの写真史に残る優れたフォト・エッセイを数多く制作しました。彼の理想は「真実」により迫る写真、真実を象徴的に明示するイコンとしての写真でした。近年の研究により、スミスが古典絵画の構図や明暗対比を巧みに取り入れていたこと、多重焼付や大胆なトリミングを駆使したことが明らかになっています。記録性や客観性をドグマとする報道写真の位置に止まりながらも、彼は主観的な制作市制と方法論を貫き続けました。現代にまで続くスミスへの高い評価とほぼ等量の批判は、彼が写真家として貫いたその主観性に起因する必然かもしれません。しかし現代の私たちはそこに、スミスのフォト・ジャーナリズムに対する個人レベルでの批判的営みを、そして写真家を超える表現者を目指した一人の写真家の挑戦と葛藤を読み取ることができます。2008年の時点でこのコレクションの収蔵・登録はようやく全体の半ばを過ぎたところですが、没後30年にあたる本年、この一部を「アイリーン・スミス・コレクション」として公開し、彼が写真に託してきた理想と、表現としての写真の可能性の一局面をあらためて検証する意義は大きいと考えます。