日本の営業写真師の開祖の一人、下岡蓮杖の一番弟子であった横山松三郎は、天保9年(1838)に千島列島の択捉島で生まれました。その後箱館(※函館の当時の表記)に移り、安政元年(1854)にペリー提督率いる黒船が来航した時には、従軍写真家E.ブラウン.Jrが役人や箱館の風景を撮影している現場を目撃したそうです。
横山は幼い頃から絵心があり、開港後の箱館で西洋画や写真を目の当たりにすると、その技法の習得を目指すようになりました。苦労して元治元年(1864)横浜で下岡蓮杖に弟子入りし、慶応4年(1868)に東京両国で写真館を開業後、すぐに上野不忍池に移り「通天楼」と名付けました。蓮杖から石版印刷も学んだ横山は、カーボン印画やゴム印画、写真と油絵を融合させた独自の技法である写真油絵など、新しい写真技法にも意欲的に取り組み、数々の実験的な表現に挑戦しました。明治6年(1873)には洋画塾を併設し、門弟の指導にも力を入れ、写真師の北庭筑波や中島待乳、木版・石版画家の亀井至一や下国羆之輔らを輩出しました。
また横山は、明治4年(1871)に江戸城の撮影を行いました。これは、慶応4年(1868)に明治新政府軍に明け渡され、皇居である西の丸以外は荒廃していく江戸城の姿を記録として残そうと、蜷川式胤(にながわのりたね)が太政官に撮影許可願いを出し実現したもので、その際内田九一も撮影に加わったとされています。さらに明治5年(1872)には、翌年ウィーンで開催が予定されていた万国博覧会への出品選定も兼ねて行われた「壬申検査」と呼ばれる近畿地方の社寺宝物調査でも、横山は写真撮影を請け負いました。これらの写真の中には現在、重要文化財に指定されているものがあります。
当時はまだ珍しかったステレオ写真の撮影や写真油絵の考案など、幕末から明治という日本の転換期に、西洋からの新しい技術や技法を研究し、果敢に新しい芸術表現を追求した横山。彼は、日本における写真と洋画の黎明期に、数々の秀作を世に遺しました。今回の展示では、もう今は見ることのできない荒廃した江戸城の姿と、ウィーン万国博覧会(明治6年開催)に出品された日本が誇る品々を中心に、当時は写真撮影の前例がなかった日光山、壬申検査、通天楼があった当時の不忍池など、113点をご覧いただきます。