松本竣介は1912(明治45)年に東京で生まれ、岩手で育ちました。病気で聴力を失った後は、将来の道を画家に定めて上京。1935(昭和10)年に二科展で初入選、以後も精力的に大作を発表し、着実に美術界で頭角を現していきます。
戦後はキュビスムなどの新境地にも意欲を見せますが、1948(昭和23)年に気管支喘息で死去。まだ36歳の若さでした。
会場入口から会場の冒頭に掲げられているのは「私は今、街の雑踏の中を原っぱを歩く様な気持で歩いてゐる」。都会を愛していた竣介を象徴する文章です。
会場構成は4章
1:前期
2:後期・人物
3:後期・風景
4:展開期
自身が撮影した写真、知人や家族に宛てた手紙、妻と共同で創刊した雑誌「雑記帳」などの関連資料も豊富に紹介し、人間・松本竣介を深く掘り下げます。
会場「2:後期・人物」冒頭で紹介した軍への抗議は、1941年(昭和16年)の事件です。
美術誌「みずゑ」の昭和16年1月号に掲載された座談会記事『国防国家と美術』で、出席していた軍人達は、画家は国家のために絵を描くべきだという暴論を展開します。
他の画家たちが沈黙を続けるなか、竣介は4月号の同誌に『生きてゐる画家』という一文を発表。画家は「作者の腹の底まで染みこんだもの」しか描くことはできないと主張しました。
竣介は当局から目をつけられ、暫くは内偵がついていたといいます。
《立てる像》そして、この《立てる像》は、騒動の翌年にあたる1942年に描かれた作品です。
大地を踏みしめて立つ姿は『生きてゐる画家』の竣介の発言と結びつけられ、反戦思想の現れとして解説されることが多い作品ですが、一方でイデオロギーとは切り離された解釈もあり、現在でも様々な議論を呼んでいます。
あらためてじっくり見てみると、綿密に描きこまれながらも、どこか存在感が希薄なような印象も。ただこれは、竣介が若くして亡くなったことを、こちらが意識しすぎているからかもしれません。
会場「1:前期」短い画家人生ながらも、日本美術界に鮮烈な足跡を残した松本竣介。
岩手県立美術館から巡回してきた本展は、この後は
宮城県美術館(2012年8月4日~9月17日)、
島根県立美術館(9月29日~11月11日)、
世田谷美術館(11月23日~2013年1月14日)に巡回します。(取材:2012年6月13日)