2015年11月20日、62歳で死去した北の湖。病状は公表されていなかったため、突然の訃報に驚いた方も多かったのではないでしょうか。
若くして横綱まで駆け上がり、多くの記録を打ち立てた昭和を代表する横綱のひとり、北の湖敏満。早すぎる回顧展は、前の企画展(
戦後70年「大相撲と戦争」)の閉幕を早めて、急遽はじまりました。
番付やパネル、ゆかりの品々などが展示されている会場北の湖(本名:小畑敏満)は北海道出身。身体が大きな小畑少年のもとには他の部屋からもスカウトが来ましたが、部屋の女将(親方夫人)が送ってくれた手作りの靴下が決め手になって、さほど大きな部屋ではなかった三保ヶ関部屋に入門したのは良く知られるエピソードです。
初土俵は1967(昭和42)年1月場所。あっという間に出世を遂げて、1974(昭和49)年7月に21歳2カ月で横綱に昇進。これは現在でも最年少記録として残ります。
北の湖のライバルといえば、もちろん54代横綱輪島大士。大学相撲の花形だった輪島に叩き上げの北の湖が追いついた形で始まった「輪湖時代」は、昭和50年代の相撲界に燦然と輝きます。
この1月に、戦後の名横綱・名大関を紹介する月刊DVDマガジン「大相撲名力士風雲録」(ベースボール・マガジン社)が創刊されましたが、偶然にも創刊号が「北の湖」。会場ではその映像もお楽しみいただけます。
全盛期は負けた事が話題になるほど、圧倒的な強さでした展覧会では貴重な実物資料も。北の湖が用いた横綱のほか、北の湖が場所入りの際に直用した着物も展示されています。
実は龍を描いたのは、北の湖の師匠である三保ケ関国秋(元大関・増位山大志郎)。三保ケ関親方は多芸で知られ、特に絵は二科展の常連になるほどの腕前でした。
色紙によく書いたのは「百福是集」。たくさんの幸せが集まるように、という意味です。
色紙はスラスラと書いていたそうです引退後は一代年寄・北の湖となり、師匠としては8人の関取を輩出。また日本相撲協会でも辣腕をふるい、二度にわたって理事長に。「土俵の充実」を掲げ、公益財団法人化を成し遂げました。
やや意外に思えますが、北の湖は決して大きな横綱ではありませんでした(輪島、北の湖、2代若乃花、三重ノ海の4横綱時代でも、最も背が低かったのは北の湖です)。ただ、はちきれんばかりの体の張りは、相撲博物館に並ぶ横綱の肖像の中でも抜群。神々しく見えるほどです。
引退後も相撲界を牽引しました北の湖びいきが口にしていたのが「もし輪島がいなかったら、北の湖は何回優勝していたか」。両者の優勝回数は24と14なので、全部北の湖なら計38回。「柏鵬時代」は5+32で37回、「曙貴時代」は11+22で33回。千代の富士(31回)、白鵬(35回)はライバル不在。史上最多優勝は、実は北の湖かも!
空想はともかく、その実力と存在感は抜きんでていました。相撲界に残した功績ははかり知れません。ファンの端くれとして、改めて厚く御礼を申し上げます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年1月7日 ]