浮世絵界で大きな勢力を誇った勝川派の祖でもある春章。前半生は不詳の部分も多く。明和(1764~72)中頃から役者絵が見られるようになります。
それまでは、どの役者も同じように描かれていましたが、春章は旧習を一新。役者の個性を似顔で表現した春章の役者絵は、開発されたばかりの鮮やかな錦絵の効果もあって、たちまち一世を風靡しました。
安永9(1780)年には、役者の日常の姿を表した版本『役者夏の富士』(市場通笑作・勝川春章画)も評判に。大衆がスターのプライベートに興味を抱く図式は、まさに江戸時代の“センテンススプリング”でしょうか。
第1章「役者絵 ─ 似顔表現の革新」天明期(1781~89)になると、春章は相撲絵に取り組みはじめます。
相撲絵はそれまでにも無かったわけではありませんが、いずれも素朴で類型的。春章は役者絵などで培った技術を元に、力士の個性を浮きだたせる似顔や、力強い人体表現を用いて、後につながる相撲絵のスタイルを確立しました。
会場には春章のほか、弟子の勝川春好、勝川春英の作品も紹介されています。
第3章「相撲絵 ─ 新ジャンルの開拓」春章は寛政4(1792)年に亡くなりますが、春章が先鞭をつけた役者絵の流れは、多くの継承者を生みました。
勝川派では春英が役者絵を継承、歌川豊国は「役者舞台之姿絵」シリーズで人気を獲得、東洲斎写楽は大首絵シリーズを出版。絵師が腕をふるい、激しい競争となりました。
結局、役者絵の争いを制したのは歌川派ですが、写楽も豊国も勝川派の手法がベース。もし春章がいなかったら、役者絵はずいぶん様相が異っていたかもしれません。
第5章「春章から写楽・豊国へ ─ 役者絵の隆盛」展覧会のサブタイトルにもあるように、春章は北斎の師。当時は「春朗」という画号でした。会場では珍しい春朗期の大判錦絵三枚続の作品も展示されています。
春章が亡くなった後、春朗は勝川派を離脱(兄弟子の春好との不仲が一因という説も)。以後は、次々に革新的な作品を生み出していきました。
後年の北斎作品からは、勝川派の画風を見出すのは困難です。実は受け継いだのは、画風ではなくそのスピリッツ。新しい事にも果敢にチャレンジする北斎の精神は、まさに師・春章の生き様そのものです。
第6章「春章から北斎へ ─ 勝川派を飛び出した異端児・北斎」本展は版画が中心ですが、肉筆にも注目。《桜下詠歌の図》は春章の肉筆画では代表的な作品のひとつで、幔幕の向こうにいるたくさんの若い女性が、イケメンの若衆に視線を送っている場面です。
緻密な肉筆美人画は、春章の十八番。本作も幕の隙間から見える衣装の柄まで、実に細やかに描かれています。春画巻『春宮秘儀図巻』の巻頭を切り離されたものと考えられています(展示は2/28まで)。
勝川春章《桜下詠歌の図》本展は版画中心ですが、同時期に
出光美術館で開催される「勝川春章と肉筆美人画 ―〈みやび〉の女性像」(2/20-3/27)は肉筆画が中心。両展で入館料の相互割引も実施されています。
両展は、図録も体裁を合わせたとの事。ふたつの図録をあわせて手に入れる事で、勝川春章はコンプリートとなります。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年2月1日 ]※会期中に展示替えがあります
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