展覧会は年代別の6章構成、1章のみ戦前の作品です。
新海覚雄は1904(明治37)年、東京・本郷生まれ。父は彫刻家で帝室技芸員にもなった新海竹太郎です。美術の道に進んだのは、ある意味必然といえるでしょうか。
初期は太平洋画会展、中央美術展、二科展などで活躍。戦前に弾圧を受けていたプロレタリア美術運動には、直接参加する事こそありませんでしたが、同系列の作家と交流を持つ中で、リアリズムの傾向が強くなっていきます。
この時期の作品で目を引くのは、夫人をモデルにした油彩。巧みな面の捉え方と、なんといっても敏子夫人の美しさが印象的です。
第1章「大正モダンから写実主義へ ─ 戦前の仕事」終戦時はちょうど40歳。美術界の民主化を掲げる日本美術会の創立に参加するなど、社会主義的な立ち位置を固めていきます。
以前はモデルを使ってアトリエで描くアカデミックな手法でしたが、この頃から現場に出て、取材をもとにした作画スタイルに。その中で、労働組合とも交流を深めていきます。
女性と遊ぶ米国人と、薄汚れた戦災孤児を対象的に描いた《独立はしたが》では、厳しい現状をストレートに描写。次第に、民主的美術運動の中心的な存在になっていきます。
第2章「社会的リアリズムへの目覚め ─ 戦後の再出発」1955年の米軍立川基地拡張計画にともなう反対運動、いわゆる「砂川闘争」は、新海にとって大きな出来事となりました。
町ぐるみで反対運動が盛り上がる中、新海は現地に入って人々の姿を描写。卓越した画力で捉えた肖像からは、強烈な意志が迫ってきます。
展覧会のメインビジュアルは、国鉄労働組合(国労)からの依頼で描いた《構内デモ》。見事な群衆表現で、労働運動を題材にした戦後リアリズムの記念碑といえる作品です。
さらに60年安保闘争も絵画化。ここでは腐敗した資本主義をコラージュで表現するなど、それまでにない実験的な手法も取り入れています。
第3章「ルポルタージュ絵画の実践 ─ 砂川闘争への参加」、第4章「たたかう群像の大作へ ─ 労働運動と安保闘争と」日本労働組合総評議会(総評)との関係が深まっていた新海は、労働組合のポスターも制作。国労、電機労連、炭労(日本炭鉱労働組合)と、いくつもの労働組合のポスターを手掛けています。
晩年には原水爆禁止を訴えるリトグラフも手がけました。《原爆の図》で知られる丸木夫妻とも交友を深め、1968年にはともに創作画人協会を結成しますが、その年に体調を崩して急逝。63歳の生涯でした。父とともに、府中の多磨霊園に永眠しています。
第5章「宣伝ポスターは訴える ─ 労働組合とともに」、第6章「リトグラフに込めた願い ─ 核兵器廃絶に向けて」リリースを見た時から骨太の展覧会とは思っていましたが、予想を遥かに超えた超骨太。特に砂川闘争の人物像は、コンテ+水彩、というあっさりした画材にも関わらず、重く、太く、熱く、濃いです。
出展数は大作を含む70点と、企画展といっても問題ないほど充分なボリューム。にも関わらず、料金は常設展価格(一般200円)です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年7月17日 ]■画家・新海覚雄の軌跡 に関するツイート