印象に残る作品で、人気の岸田劉生。展覧会も幾度となく開かれ、2014年の「岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜」展(世田谷美術館など)は、この項でもご紹介しました。
今回の展覧会は、ほぼ年代順の構成。劉生は次々に作風が変化しましたが、順路を追って見ていく事で、その過程が理解できる、という狙いです。
劉生は東京生まれ、父は実業家の岸田吟香です。14歳でキリスト教の洗礼を受け、熱心に教会に通いました。
絵画は黒田清輝に師事し、洋画を研鑽。早くも2年後には白馬会展と文展に初入選するなど、頭角を表します。
ただ、21歳でキリスト教から離れ、享楽的な生活に。アカデミックな画法にも疑問を抱いていた頃、雑誌「白樺」でゴッホやゴーギャンなど後期印象派(ポスト印象派)に衝撃を受けます。
この頃の作品は、鮮烈な色彩と大胆な筆致。白樺の文学者と親しく交友し、真の芸術家としての生き方も学んだのもこの時期です。
1912年には、後に妻となる蓁(しげる)と出会います。恋愛関係が進む中で生きた人間を慕う心が深まった劉生は、写実的な肖像を量産。「首狩り劉生」の異名をとりました。
一方で、西洋古典絵画も研究。妻を聖なる女性に見立てるなど、深淵な精神性を創作に取り入れた作品も描いています。
1913年に代々木に転居してからは写生に出かけ、風景画を積極的に製作。重要文化財の《道路と土手と塀(切通之写生)》は、人間の営みと自然の力が同居する、風景画の傑作と評されています。
肺病と診断されてからは、戸外での制作を断念して静物画にシフト。壺やリンゴをモチーフに、絵画としての完成度を追及していきます。
1919年頃からは、水彩や素描も手がけるように。軽やかな表現で「内なる美」を追及しました。1919年から21年頃まで、愛娘の麗子と近くに住む村娘の於松を、集中的に描いています。
さらに、初めて京都を訪問して以降は、東洋の美に開眼。当初は、麗子の肖像画でも着物と洋装を描くなど、東洋・西洋は区別していませんでしたが、徐々に西洋に対する東洋の美の優位性を意識するようになります。
現実的で露骨な西洋美術に対し、神秘的で無為な東洋美術こそ、美の深い境地があると結論づけ、制作の中心も日本画が主体に。1923年には「陶雅堂(塘芽堂)」の画号で、日本画家として活動します。
1926年に京都から鎌倉に移住すると、武者小路実篤の働きかけもあり、再び洋画を手掛けるように。1929年には満州に渡って意欲的な作品を描きます。
ただ、帰国直後、逗留中の山口で腎炎に尿毒症を併発させて急死。わずか38歳でした。
没後90周年の記念展という事もあり「珠玉の劉生展」を目指した本展。初期から最晩年まで、全国各地から名作ばかりが揃いました。この規模の劉生展は、没後100年展まで実現が難しいと思われます。
東京展の後は山口・名古屋に巡回します。会場と会期はこちらです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2019年8月29日 ]