19世紀に欧州を席巻したジャポニスム。ただ、西洋がジャポニスムに感化されるだけでなく、この時代は日本もミュシャなどから刺激を受けて、創作を進めていました。
展覧会ではミュシャの作品はもちろん、日本でほとんど紹介された事が無かった作家も含め、全500点超(前後期通じて)を展示。東西の美術表現の響き合いを展観します。
序章「ジャポニスム―光琳、型紙、そして浮世絵」では、流行したジャポニスムを3つの要素で紹介。琳派を顕彰する版本、染織用の型紙、北斎と広重の浮世絵です。
1章は「チェコのジャポニスム」。チェコにおけるジャポニスムは、パリ経由で流入しました。
スタートが遅かったためか、チェコでは日本美術が長く愛されたのも特徴的。その流行は、1940年代まで続きました。プラハ北方、ロストキにあった日本式のホテル「サクラ・ホテル」は、映画の舞台にもなっています。
ミュシャはチェコ生まれ(当時はオーストリア帝国)。パリでサラ・ベルナールの芝居『ジスモンダ』のポスターを制作し、アール・ヌーヴォーの寵児になりました。
本人は否定的でしたが、やはりその創作にはジャポニスムの影響が見てとれます。
第2章は「ミュシャと日本」。パリのアパルトマンにミュシャの大型ポスター《ジョブ》を貼っていたのは、浅井忠です。黒田清輝や和田英作もミュシャの作品に魅せられ、ポスターを持ち帰って白馬会展で展示しています。
白馬会の画家も多く参加した雑誌『明星』でもミュシャの絵は紹介されています。藤島武二、中澤弘光、杉浦非水らは、明らかにミュシャ風の美女を描きました。
第3章「日本とオルリク」。エミール・オルリクは、知名度は高くありませんが、グラフィックで日本と西洋の架け橋となった重要な人物です。
プラハで生まれ、銅版画による挿絵などを手掛けていたオルリクは、日本美術に惹かれて1900年に来日。狩野友信に日本画を学び、彫師や摺師から浮世絵技法も習得しました。白馬会展にも出展しています。
同展に出品した石版画《東京市街 七枚の内》は、自ら製版した「自画」の作品ですが、まさにこの時代は「自画自刻自摺」の創作版画が生まれる時期。日本では数少ない石版画家・織田一磨も、オルリクの作品に感銘を受けたひとりです。
最終章は「オルリク─日本の思い出/後継者たち」。オルリクは帰国後も画家として精力的に活動し、1902年のウィーン分離派第14回展には日本を描いた木版画16点を出品。これを期に、木版画を手掛ける作家が大きく増えています。
ジャポニスムの流行(日本 → 西洋)、ミュシャの影響(西洋 → 日本)、オルリクの日本愛(日本 → 西洋)、自画による日本版画の革新(西洋 → 日本)と、この時代のグラフィック表現は、複雑に交差しながら進んでいきました。
ひとつ重要なポイントといえるのが、紙の利便性。展覧会のほとんどは紙の作品ですが、折りたたんで持ち運べるグラフィックの簡便さは、表現改革のスピードを上げたといえます。
展覧会は千葉から始まる巡回展。和歌山、岡山、静岡に巡回します。会場と会期はこちらです。
余談ですが、近年人気爆発といえる田中一村の作品を多数有する千葉市美術館。来年度は所蔵作品を一気に公開する展覧会が開催されるとの事、今から楽しみです(2020年1月から6月末までは、施設改修のため休館です)。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2019年9月10日 ]