松田正平は1913(大正2)年、島根県生まれ。山口県宇部市で幼少期を過ごし、東京美術学校からパリに留学。戦争で帰国した後は神奈川、山口、東京、千葉と移り住みながら創作を続け、2004年に91歳で死去しました。
一般にその名が知られるようになったのは晩年になってからですが、おおらかでほのぼのとした作品は見る人の心をとらえます。
山口県立美術館から巡回してきた本展は、関東では初めてとなる大規模な回顧展。美術学校時代から晩年まで、101点を展示します。
《自画像(Mの肖像)》から、会場東京美術学校では藤島武二に学んだ松田正平。その作品は、戦前から戦後にかけて少しづつ厚塗りになっていきます。
1960年頃には絵の具の塊がカンヴァス上に附着するようになり、油絵の具と格闘するように創作を続けていきました。
1959年の《灯台》を横から見ると、厚塗りがはっきりと見てとれますその後、徐々に作品は薄くなり、80年代には透明感のある水彩のような表現に変わっていきます。
古い蔵の中を使ったアトリエで黙々とカンヴァスに向き合った作品は、美術評論家の洲之内徹らに評価されるようになります。そして1984年には第16回日本芸術大賞を受賞、この時松田は71歳でした。
1986年の《モデル》の頃には、画風も安定しています松田正平のアトリエには「犬馬難鬼魅易」と書かれた自筆の短冊が置かれていました。
鬼や化け物などを描くのは簡単だが、犬や馬などのありふれたものを描くのは難しい、という意味。身近なモティーフを好んだ松田の姿勢が現れています。
「犬馬難鬼魅易」の章展覧会の最後は、周防灘の章。瀬戸内海の西の端にあたるこの海を、松田正平は半世紀にわたって描き続けました。
「悠久の周防灘」の章長い間不遇の日々を過ごしながらも、真摯に油絵と向き合った松田正平。図録の最後には、松田正平のこんな言葉が載っていました。
「わたしは油絵がわからんから生涯描くでしょう、油絵を本気で。」
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2013年6月27日 ]