小山正太郎に師事していた初期の作品から始まる本展。力感あふれる写実画で、後年は洋画界の重鎮となった不折の力量は、当時の鉛筆画からも伺えます。
不折にとって大きな転機となったのは、明治28(1895)年の中国訪問です。日清戦争の従軍記者だった正岡子規に画家として同行し、休戦直後の様子を丹念にスケッチしました。
中国各地を巡る中で、書の魅力にひかれていった不折。漢字に関わる古い資料を集め、日本に持ち帰りました。自らが描いた書や絵を売り、漢字の考古資料を手に入れるという不折の収集人生は、ここからスタートします。
展示室入口から。小山正太郎に学んだ頃の作品や、中国でのスケッチ・水彩画子規との縁から、明治の文豪と親交が深かった不折。島崎藤村『若菜集』、夏目漱石『吾輩は猫である』などの装幀や挿絵を手がけています。
味わい深い書も評価が高く、森鴎外は自分の墓の文字を不折に書かせるよう遺言を残しているほど。会場では九代目市川団十郎こと堀越秀の顕彰文などが紹介されています。ちなみに、新宿中村屋のロゴタイプ(看板文字)も、不折による書です。
展示室2階では、装幀や挿絵、堀越秀の顕彰文などを紹介不折は絵の研鑽のため、明治34(1901)年にフランスに留学しました。
手足のデッサンから学びなおす厳しい指導を受けますが、見る見るうちに上達。明治37(1904)年10月には月例コンクールで最高賞を受賞します。指導していたジャン=ポール・ローランスも驚くスピードで、確かな画力を身につけていきました。
フランス留学時の作品。人物デッサンから、確かな画力がうかがえます帰国後は太平洋画会で活躍するとともに、文展審査員、帝国美術院会員を務めた不折。会場最後の展示室では、中国の故事を題材にした油彩の歴史画なども紹介されています。
前述したように、自らの書や絵を売って中国の文物を入手した不折。効率よく資金を得るためでしょうか、短時間で描ける日本画も制作していました。
帰国後の作品企画展が開催されている中村不折記念館に隣接する、書道博物館の本館もご紹介しましょう。書の資料収集に尽力した不折が、さらに私財を投じて昭和11年に開館したのが、書道博物館の本館です。
展示資料は、重要文化財・重要美術品を含む貴重なものばかり。紙に書かれたものだけでなく、石や青銅器に記された文字資料が多いのも特徴的で、古くは殷時代の甲骨文まで遡ることができます。
本館の常設展示。石や青銅器に記された文字のほか、骨に刻まれた甲骨文も混乱が続く清朝末期の中国から貴重な文物を収集した中村不折は、明治維新後に日本美術を救ったアーネスト・フェノロサのような存在。中国ではその後の文化大革命でも多くの考古品が失われていることもあり、中村不折の功績は計り知れません。
書の研究者以外にとっては有名とは言い難いミュージアムですが、3000年前の文字を、山手線エリア(鶯谷駅徒歩5分)で気軽に鑑賞する事ができるのは驚異的です。不折の尽力に深く感謝しつつ、眺めるだけでも楽しい甲骨文をお楽しみください。実はグッズも高クオリティー。かなり厚手でしっかりした生地の
「不折の書いた蘭亭序トートバッグ」(1,500円)、ゲットしました。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2013年12月19日 ]