モディリアーニは、20世紀初頭に芸術の最先端都市であったパリに世界中から集まった若き芸術家たちのひとり。いわゆる「エコール・ド・パリ(パリ派)」の代表的な作家として知られます。
1906年、22歳でパリに出てきたモディリアーニは、モンマルトルを中心に活動。モディリアーニはそこで、医師で若手芸術家を支援していたポール・アレクサンデルと出会います。芸術家の友人を多く持つポールは、モディリアーニに多くの出会いをもたらし、芸術活動を援助しました。
本展ではモディリアーニが描いたポールの肖像が展示されています。ポールの背後にかけられた絵は、彼が購入したモディリアーニの初期作の「ユダヤの女」です。
アメデオ・モディリアーニ《ポール・アレクサンデル博士の肖像》1909年 ヤマザキマザック美術館蔵モディリアーニはパリに来た当初から彫刻家を目指していました。当時、万博などでプリミティブ美術への注目度が高まっており、モディリアーニもこれらの造形に高い関心を示していました。その影響は大量に残されたカリアティード(女像柱)の素描作品や彫刻作品に見ることができます。
残念ながら、モディリアーニはもともと体が弱く、さらに金銭的に負担の大きな石彫刻の制作は断念せざるをえませんでした。
コンスタンティン・ブランクーシの《接吻》を中心に、モディリアーニの素描と彫刻が並びますモンパルナスにアトリエを移したモディリアーニは、肖像画を描き始めます。肖像画のほとんどは知人や友人、カフェ「ラ・ロトンド」で声をかけた人々でした。
モディリアーニは1917年に生前唯一の個展を開催。裸婦を描いた油彩5点のうち、2点が外に面したウインドーに飾られましたが、初日に公序良俗に反するとして撤去を要求されてしまいます。パリの画商たちからは徐々に注目されつつあったモディリアーニですが、残念ながら個展は成功とは言い難いものとなりました。
特徴的なフォルムで知られる肖像画には、彫刻を志した影響が見られます1919年にロンドンで行われた展覧会では、出品作に多くの買い手が付き、世間の評価は少しずつ変わり始めます。ですが、モディリアーニの健康状態は徐々に悪化。1920年に身重の妻と娘を残し、他界します。パリのペール・ラシェーズ墓地へ向かう葬列には、芸術家仲間だけでなく、カフェのウエイターや多くの市井の人々も加わりました。
カフェを模したスペースでは、タッチパネルの「つながりモディリアーニ」でモディリアーニを取り巻く人々を知ることができます。モディリアーニについて、実は伝記的な資料はほぼなく、彼の友人たちの証言で紐解くしかありません。展覧会の入り口には、友人たちのモディリアーニへの深い友情や尊敬の念が感じられる証言が紹介されています。
大型モニターのほかに、テーブルに設置されたタブレットでも見ることができますエコール・ド・パリのコレクションが充実していることでも知られる
ポーラ美術館。本展でも、モディリアーニの油彩7点と素描以外は、すべて
ポーラ美術館のコレクションです。
展示室2と3では印象派などのコレクション展示も。モネやルノワール、レオナール・フジタ、黒田清輝、高橋由一、横山大観など見ごたえ抜群。こちらも見逃せません。ボリューム満点の
ポーラ美術館で贅沢な時間を過ごしてください。
[ 取材・撮影・文:川田千沙 / 2014年4月4日 ]