オリンピックが開催され、新幹線が開通したのは1964年。終戦は1945年、サンフランシスコ平和条約の発効が1952年ですので、実は焼け野原から19年、独立から12年しか経っていません。
半世紀前に、驚くべきスピードで進められたビッグプロジェクト。実現までの経緯を振り返ることで、これからの東京を考えていく企画展です。
会場入口に掲げられているのは、NHKのラジオ番組「街頭録音」のぼりです。終戦後に日本を占領したGHQは、民主化政策の手段としてラジオを重視。テーマを決めて街頭で市民にインタビューし、国民の声を放送で広めました。
会場入口から展覧会は3章構成、第1章は「終戦から高度経済成長へ」です。
敗戦と同時に日本を間接統治したGHQ。1947年には日本国憲法が施行され、民主国家としての一歩を踏み出しました。
出版の分野もGHQの検閲下ではあるものの大幅に自由化。「奇譚クラブ」などのカストリ雑誌(大衆娯楽誌)も人気を博しました。
朝鮮戦争の特需も受けて、高度経済成長に突入。生活面でも特に都市部ではさまがわりし、(白黒)テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の「三種の神器」は、女性の家事労働負担を軽減させました。
民主化、自由、経済成長。いくつもの歯車がかみ合う事で、大事業に向けての環境は整っていったのです。
第1章「終戦から高度経済成長へ」第2章は「高速鉄道、新幹線の歴史」。まずは新幹線開通前の東海道線を紹介します。
東京駅-神戸駅間が全線直流電化されたのは1956年。1958年には国鉄初の電車特急「こだま」が導入され、東京-大阪間の日帰り出張が可能となりました(ただし東京7:00発→大阪13:50着。帰りは大阪16:00発→東京22:50着)。
高度経済成長期に入り、東海道本線の輸送量がひっ迫。従来線を複々線化するという計画に対し、当時の国鉄総裁十河信二が「広軌高速鉄道を別線で敷設」と主張し、新幹線に向けて舵を切る事となります。
テスト走行用のモデル線区を小田原-綾瀬間に敷設。1962年からテスト走行が始まり、翌年には時速256kmと世界最高速度をマーク。1964年の開業にこぎつけました。
その後「ひかりは西へ」のキャッチフレーズのもと、山陽新幹線が建設。国鉄からJRに運営主体が変わった後も次々に新型車両が導入され、その活躍の場は海外にも広がっています。
第2章「高速鉄道、新幹線の歴史」第3章は「1964年東京オリンピック・パラリンピック」です。
東京でのオリンピックは1940年に開催される事が決まっていましたが、時局が悪化。1938年に開催を返上した際の資料も展示されています。
そして、1964年の東京オリンピック。開催地に選出されたのは1959年です。敗戦から立ち上がり国際社会への復帰を目指す日本にとって、オリンピックの招致は悲願でもありました。
会場で目をひくのは、豪華なアタッシュケースに入った5つの模型です。CGもネットも無かった時代、海外に施設を紹介するため、持ち運びに便利なように作られました。蓋の裏側には英文の解説もついているこの模型、実は丹青社による製作です。
五輪閉幕後、11月8日から始まったのが「1964年パラリンピック国際身体障害者スポーツ大会」。もとは大戦で負傷した人々のリハビリとして行われたスポーツ大会がきっかけです。この大会が第2回ですが、パラリンピックという言葉はこの時に作られました。
第3章「1964年東京オリンピック・パラリンピック」世紀のプロジェクトを支えた人々の熱い想いが響いてくるような企画展。巡回はせずに、
江戸東京博物館だけでの開催です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年9月29日 ]