スイス・ベルンの貧しい家に生まれたホドラー。7歳で父が死去した事をはじめ、1885年までに実の両親や兄弟すべてを結核で失いました。
ホドラーの活動初期に「死」を連想させる作品が少なくない事は、しばしばこの生い立ちとの関連が指摘されます。ただ、世紀末のヨーロッパ芸術全体が、憂鬱で退廃的な傾向の作品を求めていたのも事実です。
会場入口 第1章「光のほうへ ─ 初期の風景画」20世紀を迎える頃になると、ホドラーの作品には変化が見られます。
類似する身ぶりを反復させたり、シンメトリックに配置。「パラレリズム」(平行主義)という独自の美術理論を唱えました。
以後、ホドラーの作品には踊る女性たちが数多く描かれる事となります。
第3章「リズムの絵画へ ─ 踊る身体、動く感情」クレーはドイツ、ジャコメッティはフランスに出て活躍したのとは対照的に、ホドラーは生涯にわたってスイスにとどまりました。
スイス・アルプスの自然も、ホドラーの恰好のモチーフ。ユングフラウ山やシュトックホルン山群、レマン湖などをくり返し描きましたが、風景画も1900年代以降は次第に抽象化されていきます。
第4章「変幻するアルプス ─ 風景の抽象化」1904年の第19回ウイーン分離派展で大成功をおさめたホドラーは、国際的な名声が確立します。
国家的な仕事も増え、1908年にはスイス・フラン紙幣の図案を制作。そして1910年に、新しく建設されたチューリヒ美術館の階段吹き抜けの壁面絵画を依頼されました。
壁画は、踊る5人の女性が並ぶ《無限へのまなざし》。フレスコではなく油彩画で、この壁画が最終設置されたのはホドラーが亡くなる直前、1918年のことでした。
本展では《無限へのまなざし》の習作を紹介。原寸大の写真も展示されており、その巨大さが理解できます。
第6章「無限へのまなざし ─ 終わらないリズムの夢」1975年に
国立西洋美術館と
京都市美術館で「ホドラー展」が開催されましたが、大規模な展覧会はそれ以来です。2015年1月24日(土)~4月5日(日)には、
兵庫県立美術館に巡回します。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年10月6日 ]■フェルディナント・ホドラー展 に関するツイート