二科会は1914(大正3)年の結成。文展洋画部への監査に不満を抱いた一部の洋画家たちが、文展を離脱して立ち上げました。
同年開催された第1回の二科展には有馬生馬、石井伯亭、坂本繁二郎ら気鋭の洋画家が意欲作を出品。当初は審査は行われない予定でしたが、東京渡辺銀行から資金が提供されたため、急遽「二科賞」が設定。第2回展からは「樗牛賞」も設けられ、有望な若手への登竜門的な性格も帯びました。
冒頭の章には、珍しい岸田劉生の彫刻も。岸田劉生は生涯に2点しか彫刻を作っていないとされています。
第1章「草創期」第2章「揺籃期」では、1920(大正9)年の第7回展以降が紹介されます。
活動の場を広げていった二科会。この時期には二科展に出品する外国人作家も現れ、第10回展ではフランスの現代画家作品としてマティスやピカソの作品も紹介されています。
第16回展には阿部金剛、古賀春江らが日本初の超現実主義的な作品を出展しました。東郷青児《超現実派の散歩》(東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館蔵)もそのひとつで、東郷がフランス留学後の数年間だけ制作した希少な作風。
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館のシンボルマークになっています。
第2章「揺籃期」1932(昭和7)年の第21回展に参加したのが、すでにパリ画壇の寵児となっていた藤田嗣治。藤田は翌々年には会員になり、多くの作品を出品して注目を集めました。
この時期は、戦争が美術会にも暗い影を落としていきます。画材の配給制など物理的な制約に加え、裸体画や前衛表現は禁止に。藤田や宮本三郎らは従軍画家としての活動も余儀なくされました。
《画家の像》(宮城県美術館蔵)は、松本竣介による自画像。松本が戦争や体制に対してどのような立ち位置だったのかは諸説がありますが、本作が画家の独立志向を強く現した秀作である事は言うまでもありません。
第3章「発展そして解散」1944(昭和19)年には初めて展覧会の開催が中止に追い込まれて解散した二科会ですが、終戦後はいち早く東郷青児と高岡徳太郎が再建に着手。終戦翌年の1946(昭和21)年には、第31回展が開催されました。
東郷は再興期の二科会を牽引。前夜祭で裸の女性を乗せた神輿を担ぐパフォーマンスを実施するなど世間の注目を集め、興行的にも成功に導きました。
岡本太郎を会員に迎えた際には、前衛的な作品を集めた部屋(通称:岡本部屋)も設置。「大衆迎合」の批判を恐れない積極的な姿勢は、芸能人の作品がしばしば出品・入選する現在の二科展にも受け継がれています。
第4章「再興期」本展の出展作は、全て二科展への出品作というのも特徴的。二科展に対する作家の熱い想いもストレートに伝わってくるようです。東京展の後は大阪(
大阪市立美術館:9/12~11/1)、福岡(
石橋美術館:11/7~12/27)に巡回します。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年7月17日 ]