会場は年代順の4章構成。第1章は、ゴーギャンが初めてポン=タヴァンを訪れた1886年頃の作品です。
ゴーギャンの作品は今年2月に3億ドル(約360億円)で落札されて話題になりましたが、当時は絵が売れずに困窮。ポン=タヴァンを訪れたのも、生活費の安さが一因です。最初の滞在は3カ月ほど。会場にはこの地で描いたデッサンや油彩が展示されています。
ゴーギャンが手がけた珍しい陶器は、ポン=タヴァンからパリに戻った時に陶芸家のエルネスト・シャプレと共に作ったもの。側面に手を取り合う男女があしらわれています。
第1章「1886年 ゴーギャンの最初の滞在」ゴーギャンがポン=タヴァンを2度目に訪れたのは、1881年。20歳年下のエミール・ベルナールがゴッホからの推薦状を手にゴーギャンの元を訪れたのも、この年です。
意気投合した二人は、現実と想像を同じ画面上で構成させる「総合主義」を提唱。「目に見えないものを描く」事は、後の近代絵画においては主流となる考え方です。
ゴーギャンの作品は、この章に最多の7点。女性の特徴的な被り物はブルターニュ特有の衣装です。
第2章「総合主義の創出」1889年、ゴーギャンらはパリ万博にあわせて開催した「印象主義および総合主義グループの絵画」展を開催。ポン=タヴァンで制作した作品も展示し、ブルターニュの魅力を伝えました。
ゴーギャンはポン=タヴァンに戻りますが、すでに当地にはアカデミズム絵画の画家たちが多数いた事に反発し、仲間とともに近隣の小村ル・プルーデュへ。ゴーギャンはこの地で仲間と刺激しあう充実した時間を過ごし、後にタヒチに向かう夢も膨らませました。
第3章「ル・プールデュでの滞在とグループの拡大」1891年にタヒチに渡ったゴーギャン。93年には一度フランスに戻り、まずパリに滞在。翌年にはル・プルーデュに赴き、次いでポン=タヴァンへ。結果的に、ゴーギャンにとってこれが最後のブルターニュでの滞在となりました。
印象派から総合主義、ナビ派、象徴主義へと進む流れの中で、ゴーギャンを中心にしたポン=タヴァンの画家たちは大きな役割を果たしていったのです。
第4章「ブルターニュでの最後の滞在、そして最後の仲間たち」ゴーギャンとポン=タヴァン派をテーマにした展覧会の開催は、日本では22年ぶり。ゴーギャン作品は11点とあまり多くはありませんが、うち5点は日本初公開という貴重な機会です。福井、岩手、鹿児島、広島と巡回し、東京展が最後の会場になります。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年10月28日 ]■ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち展 に関するツイート