日中戦争が始まった1937年からサンフランシスコ講和条約が発効した1952年まで、年代順に約170点を紹介する本展。主要(とされる)画家の作品は多くはありませんが、個々の画家の創作を掘り下げ、美術家たちが大きな流れに飲み込まれていった(または、自ら身を投じた)さまが浮き彫りになっていきます。
展示の中心は絵画ですが、同時代の版画や工芸の作品も紹介。またグラフ雑誌や漫画などの印刷物もあわせて展示する事で、当時の世相も伝わってきます。
1937年から1952年までの作品が並びます
最も多くの作品が展示されているのが、栃木生まれの清水登之です。清水は士官学校の受験に失敗して画家の道へ(軍で身を立てるのは、当時の若者にとってごく普通の目標でした)。上海事変の戦跡取材を皮切りに満州、南京、漢口、東南アジア各地と積極的に戦地をまわり多くの作品を残しました。皮肉な事に、従軍した長男は戦死しています。
風景画の名手で新版画でも活躍した吉田博も、1938~40年に陸軍の依頼で中国に赴いています。すでに還暦を越えていた吉田(1876年生)ですが、飛行機に搭乗し、写真も撮影。迫力あふれる《急降下爆撃》は、1941年の第4回新文展への出品作です。
清水登之と吉田博の作品
「戦争画」の文脈ではあまり語られる事が無い女性画家の作品も、数多く紹介されています。
美人画で名高い上村松園は戦争とは縁がなさそうに思えますが、1941年に慰問のため中国へ。松園が描いた‘つましい江戸女性’の姿は、倹約の精神とも合っています。
一方で赤松俊子(丸木俊)は、抑圧された人々を表現。元になったのは南洋諸島で描いた明るいスケッチでしたが、時代の空気を反映して陰鬱な作品にまとめられました。
女流美術家奉公会を結成した長谷川春子、同会にも参加した吉田ふじを(吉田博の妻)、戦後は舞台美術家として活躍した朝倉摂なども、時代の求めに応じた作品を創作。結果として多くの画家たちは、国が主導する戦争の枠組みに加担する事になったのです。
女性画家の作品
あまり知られていないと思われるのが、戦争柄の着物。日露戦争の英雄である東郷平八郎と乃木希典の肖像や、飛行機、戦艦などが、男児用の着物に描かれています。実在の軍人や兵器が、子どもの健康と出世を祈る吉祥の柄として使われているのは、現代の感覚からすると驚くばかりです。
最後の「一億一心」は、1941年から新聞や雑誌に頻出した標語。一日における心得として記されているのは、庭に畑を作れ、夜は戦地の兵隊を思って眠れ…等々です。
戦争柄の着物
展覧会後半は、戦後の作品。民主化政策の中で画家たちも自由な創作が可能となり、戦時中は難しかった裸婦像も見られるようになります。赤松俊子(丸木俊)の裸婦は力強く自立、‘慰安婦’に屈折した感情を抱いていた古沢岩美は官能的、桂ユキ子(ゆき)は生活に疲れた裸婦と、三様の裸婦像が並びます。
労働運動も盛んになり、新居広治は戦後初の労働争議である茨城県高萩炭鉱での闘争を題材にした版画を制作。ただ、米国は占領政策を転換して「逆コース」を進む事となり、社会主義運動は取締りの対象になっていきます。
展覧会の最後は、丸木位里・赤松俊子(丸木俊)による《原爆の図 第4部 虹》。《原爆の図》は今夏、米国の首都・ワシントンで初めて展示されて話題になりました。
戦後の作品
軍・官・民が一体となり、誰もが迷う事なく突き進んだ戦争への道。画家たちも、むしろ誇りを持って戦争を支える側に参画して行った事が分かります。戦争が終わって私たちは自由を手に入れましたが、この教訓を活かしていると、胸を張って言えるでしょうか。
栃木での開催という事もあって、行く前に少し迷っていたのが恥ずかしくなりました。取材とご紹介が遅くなった事を深くお詫びいたします。これを見ずに「戦後70年展」の話は出来ないと断言します。[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年12月9日 ]