2歳違いのマティスとルオーは、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)で、共にギュスターヴ・モローに学んだ同門。スタイルを押し付ける事なく、個性を尊重するモローの指導のもとで、ふたりは独自のスタイルを確立させていきます。
展覧会は、新進画家だったふたりの初期作品からスタート。マティスの初期の油彩画を見ると、後年の華やかな画風とはかなり異なる事がわかります。ルオーがモロー教室時代に描いたデッサン《〈学者たちの間の幼児イエス〉のための習作》は、本展で初公開となります。
第1章「国立美術学校(エコール・デ・ボザール)からサロン・ドートンヌへ 1892年~1913年」続いて1914年~1944年。わずか30年の間に2つの世界大戦が起こったこの時代、ルオーはパリで、マティスは南仏ニースで活動しています。
会場各所には、本展のテーマでもある手紙が展示されています(うち2点は直筆)。この時代の手紙には、ニューヨークの画商としてルオー作品を扱っていた、マティスの子息ピエールも参加。ルオーの《曲馬団の娘たち》や《大馬車(旧題:サルタンバンク)》は、ピエールによって日本にもたらされた作品です。
第2章「パリ・ニース・ニューヨーク 1914年~1944年」マティスやルオーだけでなく、この時代の多くの美術家たちにとって特別な存在といえるのが、美術本出版人のテリアード(1897-1983)。
ナチスがパリを占領していた時代には、油彩画を自由に描く事は困難でしたが、テリアードが発行した芸術誌『ヴェルヴ』に彼らの作品が高品質のリトグラフで掲載されています。二人の作品が『ヴェルヴ』の表紙を飾ったのは計7冊。会場には7冊全てが紹介されています。
この章で注目は、ルオーの「気晴らし」シリーズの油彩画。「気晴らし」シリーズはルオーの作品を原画にした詩画集で、全15点が一挙に展示されるのはフランスでも実現していません。
第3章「出版人テリアードと占領期」戦後の二人の作品は、それぞれの個性が際立つようになります。マティスは単純な線と純粋な色彩を追及した結果、版画『ジャズ』に到達。ルオーは宗教性を深めるとともに、特徴的な厚塗りは晩年になるにしたがってさらに厚さを増していきます。
二人はマティスがなくなる前年まで手紙のやりとりを続けるなど、生涯にわたる親友でした。マティスはニースで1954年に、ルオーはパリで1958年に死去。それぞれ84歳と86歳、同時代を生きた偉大なフランス人画家でした。
会場出口には、撮影コーナーも。マティスのモデルになったつもりで、お楽しみいただけます。
第4章「『ジャズ』と《聖顔》1945年~1956年」会場をご紹介しましたが、ルオーは著作権が存続している事もあって、マティスの作品ばかりになってしまいました。パリのジョルジュ・ルオー財団から出品される貴重な作品も数多くありますので、ぜひ会場でご覧ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2017年1月13日 ] | | マティスとルオー 友情の手紙
アンリ・マティス (著), ジョルジュ・ルオー (著), ジャクリーヌ・マンク (編集) みすず書房 ¥ 3,780 |
■マティスとルオー展 手紙が明かす二人の秘密 に関するツイート