展覧会は国立西洋美術館の開館60周年と、ピュリスム誕生から100周年を記念した企画。ピュリスム時代のル・コルビュジエは、本名のシャルル=エドゥアール・ジャンヌレとして活動していました。
ピュリスムを牽引したのが、画家のアメデ・オザンファン(1886-1966)。オザンファンとジャンヌレは、第一次大戦の終結直後の1918年12月にパリで絵画展を開催。著作「キュビスム以後」で、当時最先端だったキュビスムを、主観的で無秩序な芸術であると批判しました。
ふたりは近代科学と機械の進歩を称賛し、社会の近代化に応える普遍的な表現として「ピュリスム」を提唱。幾何学的な規則に基づく構築的な絵画を追及し、独自の様式を確立していきます。
1920年秋には、月刊誌「エスプリ・ヌーヴォー(新精神)」を創刊、「構築と総合」の啓蒙を目指しました。ジャンヌレはこの雑誌に建築論を発表し、この時に用いたペンネームが「ル・コルビュジエ」でした。
ピュリスムの槍玉にあがったキュビスムは、20世紀の初頭に生まれました。第一次世界大戦中に一時衰えたものの、戦後、再び勢いを取り戻していました。
オザンファンとジャンヌレは、ピカソ(1881年生)やブラック(1882年生)といった、少し上の世代が進めたキュビスムを批判していました。ただ、「幾何学的な秩序に支えられた芸術」という点で、キュビスムとピュリスムは同根といえます。
戦後、ドイツ人画商が所有していたキュビスム絵画の競売に関わったジャンヌレ。ピカソ、ブラック、レジェらの作品に初めて接し、すでに彼らが「構築と統合」を実現していた事を理解したジャンヌレは、完全に考えを改めました。この経験は自身の絵画、そして建築にも大きな影響を与える事となります。
「エスプリ・ヌーヴォー」誌での連載から、本格的に建築家としての道を歩み始めたジャンヌレ。1925年のパリ国際装飾芸術博覧会(アール・デコ博覧会)に出展したパビリオン「エスプリ・ヌーヴォー館」は、ピュリスムの記念碑的な作品です。博覧会のテーマである「装飾芸術」を真っ向から否定し、規格化と大量生産に基づいた生活環境を示しました。
ただ、オザンファンとの関係は徐々に微妙になっていました。双方の不信感と競争心は徐々に拡大し、1925年に爆発。オザンファンは「エスプリ・ヌーヴォー」誌の編集から撤退し、ここにピュリスムは終焉を迎えました。
知名度を上げたジャンヌレは支持を集め、1920年代後半には近代建築の第一人者としての名声を不動のものにします。
一方で絵画は、1923年以降は展覧会への出展こそなくなりますが、絵画に対する興味を失ったわけではありません。むしろ、1927年頃からは午前中にデッサンと絵を描く事を日課にするなど、忙しい建築家の仕事の中でも、絵画の重要性を認識していました。
1928年からは絵画の署名もル・コルビュジエに。自然の風景や女性像も描かれるようになり、「幾何学的な秩序」から「人間と自然の調和」に変わっていきました。コルビュジエの代表作「サヴォワ邸」にも、浴室の曲線や螺旋階段などに、絵画における変化を見る事ができます。
会場の国立西洋美術館本館は、ル・コルビュジエが設計した3つの美術館のなかのひとつ。建築模型が展示されている1階の19世紀ホールから、スロープを上がった回廊状の2階で絵画などを見る流れです。ル・コルビュジエの思想を体感しながら、その原点といえる絵画を鑑賞できる、贅沢な展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2019年2月18日 ]