戦後復興のシンボルとして位置付けられることが多い、1964年の東京オリンピック。敗戦から20年弱での開催でしたが大会は大成功し「世紀の祭典」と称えられました。
展覧会の冒頭は、焼け野原になった東京の写真からです。東京駅は空襲でボロボロ。焼け跡の都心でネギやサトイモを育てている風景など、今では考えられない写真が並びます。
冒頭の第1章は「復興の東京」実は、東京でオリンピックが開催されることが決まったのは今回で3回目です。1940年の第12回大会も東京で開催される事が決まっていましたが、世界情勢の悪化によって開催を返上。第二次世界大戦の勃発により、結局この大会は開催されませんでした。
会場には幻となった第12回大会の資料も展示されています。開催決定を報じる号外や、記念乗車券、マッチ箱、オリンピック双六など、珍しい資料が並びます。
第2章「オリンピックをもう一度」そして1959年5月、第18回大会が東京で開催されることが決定。敗戦から立ち上がった日本の姿を見せるべく、あるゆる面で準備が進められました。
オリンピックに向けた活動として、東海道新幹線の開通などのハードの整備は良く知られていますが、興味深いのはソフト面での運動です。
海外からのお客様を迎えるために、東京都は「一千万人の手で東京をきれいに」と称した「首都美化運動」を展開。財団法人東京オリンピック資金財団は募金活動や寄付金付き切手の販売のほか、協賛競馬や競輪などにも関与しました。これらは資金を集めると同時に、開催の気運を盛り上げる役割も果たしています。
第3章「オリンピックがやってくる」1964年10月10日、ついにアジア初開催となるオリンピック東京大会が開幕しました。第18回オリンピック東京大会の日本代表選手用の公式ブレザーは「ヴァンヂャケット」の石津謙介がデザイン。聖火ランナー用のランニングは、繊維産業が盛んな墨田区の会社で作られました。
「東洋の魔女」の活躍、神永vsヘーシンク、アベベの激走…熱い戦いが14日間にわたって繰り広げられ、無事に閉幕。国際社会の中での日本の立ち位置は、ここに確立したのです。
第4章「オリンピックが始まった」展覧会の最後は、今回の招致活動の紹介。大会計画の申請ファイルから、記憶に新しい招致決定の号外新聞まで。早朝からテレビにかじりついて、東京の当選を祈っていた方も多いのではないでしょうか。
1988年開催をめぐって名古屋がソウルに敗退、2008年開催では大阪が北京に敗退、東京も2016年開催でリオデジャネイロに敗れていますので、日本での五輪招致は3連敗中。ようやく雪辱を果たしました。
今回の招致運動50年前と今とでは状況が異なりますが、オリンピックを前にした高揚感は変わりません。
ザハ・ハディドが設計した斬新な新国立競技場をはじめ、オリンピックに向けた新しい計画も目白押し(新国立競技場の規模には異論の声も出ていますが)。変わっていく東京の姿と同時に、私たち自身の内面的な意識もどう変わるのか。楽しみにしたいと思います。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2013年9月13日 ]