明治新政府になって整えられた、近代日本の勲章制度。当初制定された勲章は戦功者や政治家、官僚などが対象だったため、文化で功績があった人に贈られる勲章はありませんでした。
昭和に入ると文化を対象にした勲章制度の創設の機運が高まり、1937(昭和12)年に制定されたのが、現在まで続く文化勲章です。
第1回文化勲章の受章者は9名の中に日本画家として選ばれたのが、横山大観と竹内栖鳳の2名でした。以降、昨年の松尾敏男氏まで39名の日本画家が受章。ちなみに他のジャンルは洋画が20人、陶芸9人、書7人で、日本画はとても多くの文化勲章受章者を輩出していることが分かります。
会場入口から会場では、実際の文化勲章も紹介されています。
文化勲章は彫刻家の畑正吉がデザイン。先端の章は橘の花がモチーフで、七宝でつくられています。当初は桜の花で考案されましたが「桜は散るので武人の勲章としては良いが、永遠に発展する文化の章にはそぐわない」と、昭和天皇が反対されたそうです。
展示されている文化勲章は、横山大観と松尾敏男氏のもの。時代が変わってもデザインは同じですが、よく見ると七宝の盛り上がり方など、微妙な差も見られます。
最初が横山大観、ついで松尾敏男氏の文化勲章。以前は七宝の盛り上がりが少なかったようです横山大観と竹内栖鳳に次いで、三年後に受章したのが川合玉堂です(ただし当時は毎年の実施ではなかったので、これが二回目の授与式でした)。玉堂は大観・栖鳳と並んで「三元老」とされていた実力者だったため、初回の文化勲章の選に漏れたことに異議を唱える声もありました。
大正時代には艶やかな屏風を手掛けていた玉堂。こちらはやや後年(昭和6年)の作ですが、金地に鶴と松を描いた吉祥画です。縮緬状の金箔で輝きが和らげられ、上品な雰囲気を醸し出しています。
川合玉堂《松渚双鶴》四階から入って三階に降りる動線の、高崎市タワー美術館。三階には額装の作品が並びます。
昭和30年代から抽象的な表現に変わった堂本印象、エジプトシリーズの後に裸婦をテーマにした杉山寧など、個性が際立つ作品は目をひきます。
三階会場会場の一番最後は、松尾敏男氏の《燿春》。松尾氏が繰り返し描いている牡丹を大きく描いた大作です。
実は昨年の松尾氏の受章は、日本画家としては6年ぶり。戦争を挟んだ時期に8年ぶりの受章がありましたが、それに次ぐ長いブランクを埋めたのが、松尾氏でした。
会場最後は、松尾敏男氏の《燿春》文化勲章が制定された昭和12年は、盧溝橋事件を機に日中戦争が始まった年。敗戦後は連合国の指令でほとんどの叙勲が中止される中、文化勲章のみは純粋に芸術分野の章であるため、授章が続けられました。
大きな歴史的なうねりの中でも、制定以来77年にわたって続いている文化勲章。今でも文化の日が近づくと受章者がマスコミで大きく発表され、わたしたちの関心を集めています。
なお、本展は巡回せず、
高崎市タワー美術館だけでの開催です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2013年12月13日 ]