来年2020年は、良寛(1758-1831年)が没して190年になります。子どもたちと手毬をついたり生きとし生けるものに慈愛の手を差し伸べた良寛は、今も多くの人々に親しまれています。良寛は出雲崎の名主の跡取りとして生まれましたが、18歳で出家し、家業は弟に託しました。曹洞宗の僧として諸国で修業した後、39歳で故郷の越後に戻り、燕市国上山に庵を結んで暮らしました。自分の寺を持たず、日が暮れるまで子どもたちと手毬で遊び、人々から親しまれていました。しかし一方では、明治時代に仏教哲学者・原坦山(はら・たんざん、1819-1892年)が、「日本で仏学の蘊奥(うんおう)を究めし者、空海以来、唯この人のみ」と評したように良寛は優れた境涯を持つ禅僧でした。
會津八一(1881-1956年)は青年の頃、正岡子規の根岸庵を訪ね、「我が郷の良寛禅師を知りたまふや」とただし、村山半牧(1828-1868年)の『僧良寛歌集』を贈ったと記しています。良寛が広く知られ始めたのはその頃からです。八一は糸魚川に退住していた相馬御風(1883-1950年)に良寛研究を勧めたといいます。『大愚良寛』を著した御風は、「本当の自分」を取り戻すために、良寛の生き方に倣おうとしました。八一と御風は早稲田大学での同級生であり、2人ともその専攻は西洋近代文学でした。ここに、従来の古めかしい中国風の文人とは異なる、西欧的ヒューマニズムの視点からする新たな良寛の人間像についての解釈が生まれました。良寛こそが、伝統と近代にまたがる新潟の文人の理想型です。
本展は、にいがた文化の記憶館の座標軸をなす人物としての良寛を再発見するための企画展示です。