4つの官展に着目し、アジアの近代美術を紹介する展覧会。
府中市美術館では、まず満州の官展から紹介していきます。
満州では皇帝溥儀の日本訪問を記念して1937年に訪日宣詔記念美術展が開催。翌年から満州国美術展として1945年の第8回展まで催されました。
終戦の混乱とその後の中国の歴史の中で、満州国展の出品作は今のところ見つかっていません。会場では写真などの資料のほか、出展作家による同時代の作品などが紹介されています。
満州国展の出品者名簿には中国人、朝鮮人、白系ロシア人、日本人などの名前が残されています。政策的な意図も見え隠れしますが、満州が多民族国家である事を示しています。
満州の官展次は日本の官展です。1907年に始まった文部省美術展覧会(文展)は、勧業博覧会の美術部門が独立して始まりました。
出品物を審査して優品を選ぶことで産業振興を図った勧業博と同様に、文展も審査は最重要事項。そのため審査制度を巡るトラブルは多く、度重なる規定の改定、審査員の離脱、著名美術団体の不参加などが繰り返されました。
文展は後に帝展と名前を変え、時の文相による改組騒動(松田改組)を経て新文展に。在野の団体も含めた全美術界を横断する大展覧会は、1940年の「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」で実現しましたが、その後の官展は戦時体制の中に埋没していく事となります。
この章には、お馴染みの作家の名前が並びます。松林桂月、荒木十畝、山口蓬春、前田青邨、藤島武二、小林萬吾、梅原龍三郎、安井曾太郎らは他の官展の審査員も務めています。
日本の官展朝鮮美術展覧会は1922年から開催。日本の植民地の中では最も早く、1944年まで計23回行われました。
東洋画、西洋画、書の3部構成だった朝鮮美展。書部は日本の内地でも審査対象に入っていませんでしたが、朝鮮では層が厚かったこともあり、文人画とともに対象とされました(文人画は当初は東洋画部に、後に書部に組み組まれました)。
出品作家は朝鮮人より日本人の方がはるかに多く、審査員もほとんどが日本人。朝鮮人審査員と日本人審査員には謝礼にも大きな差があるなど、政治的にも中立とは言い難い組織でした。一方で、多くの美術家が朝鮮美展に挑むことによって韓国近代美術の一翼を担い、その論評を通じて卓越した評論家も輩出したことも事実です。
朝鮮の官展台湾美術展覧会は1927年の開設。計16回開催されました。
台湾展もほとんどの審査員は日本人。台湾展で表彰されることは大きな名誉であり、台湾の作家たちはその土地らしい主題や表現を模索しながら作品を描いていきました。
台湾では作品展示の機会も限られているため、台湾のエリート画家たちにとっては日本の官展で入選し、特選を得る事も大きな目標でした。
台湾の官展ソウル(旧京城)、台北、長春(旧新京)で開催されていた3つの官展。政治的な制約の中でも、各地の美術家が懸命に美術の近代化を目指した姿を俯瞰できる展覧会です。アジアの中での日本の立ち位置について様々な議論がおこる中で本展が開催できた事にも、大きな意義があるように思いました。
本展は全国巡回展。
福岡アジア美術館からはじまり、
府中市美術館が2会場目。最後が
兵庫県立美術館(2014年6月14日~7月21日)です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年5月13日 ]