1895年にポスター《ジスモンダ》で一躍脚光を浴びたミュシャ。アール・ヌーヴォーの旗手としてパリやアメリカで名声を得ますが、晩年に故郷のチェコに戻って描いたのが《スラヴ叙事詩》です。
当時は列強による覇権主義が続く中で、小国の独立心が刺激されていた時代。チェコでもオーストリア=ハンガリー帝国とゲルマン化政策に対する反発が強まっており、熱烈な愛国者であるミュシャが、その想いを作品にぶつける事は必然でもありました。
スラヴ民族の苦難と栄光の歴史を全20点で描いた《スラヴ叙事詩》。最大で610×810cm、小さなものでも405×480cmという大きさで、1989年と1995年に1枚ずつ来日した事はありますが、全点がチェコ国外で展示されるのは今回が初めてです。
会場に入ると、早速《スラヴ叙事詩》が登場。月並みですが、あまりのボリュームに圧倒される思いです。3室に渡り、計20点が展示されています。
《スラヴ叙事詩》ここでは4点のみ、ご案内しましょう。
最初の3点がシリーズ中で最も完成度が高いとされており、「スラヴ式典礼の導入」はその3枚目。宗教儀式でスラヴ語を使う事を認めさせ、ローマからの解放を勝ち取った場面を象徴しています。輪を手にした前方の若者が、スラヴ人の団結を示しています。
最も劇的とされるのが、14番目の「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛」。オスマン帝国がハンガリーの要塞シゲットに来襲、司令官は被弾するも勇敢に戦いました。敵の大帝は戦死、オスマン帝国の野望を食い止めたのです。
18番目「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」は、唯一未完の作品。1894年に結成されたスラヴの民族主義的な団体「オムラジナ」を描いたものですが、ナチス式の敬礼が問題視されました。前方にはミュシャの息子と娘をモデルした人物も描かれています。
「スラヴ民族の賛歌」は20番目の作品。青・赤・黒・黄の4色で、勝利に至るスラヴ民族の4段階が描き分けられています。画面上部の人物は、チェコスロバキアおよび第一次世界大戦後に誕生したその他の国民国家のシンボルです。
《スラヴ叙事詩》 順に「スラヴ式典礼の導入」「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛」「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」「スラヴ民族の賛歌」会場の後半では「お馴染みのミュシャ」も紹介されています。ブレイクのきっかけとなった《ジスモンダ》のほか、《四つの花》や《四芸術》の連作など、華やかな作品が並びます。
ミュシャは1910年に帰国。プラハ市民会館の装飾や、スポーツ教育を推進するチェコの協会「ソコル」のポスターなど、公共性が高い仕事も次々と手掛けました。女性の描き方も変化しており、丸顔のふっくらした容姿は、妻をモデルにしています。
会場後半ミュシャが晩年の総力を注いだ《スラヴ叙事詩》ですが、必ずしも歓迎されたわけではありませんでした。完成した頃は社会情勢は一変。美術は前衛芸術が躍進、すでに民主主義も広がっていたため、独立のための戦いやスラヴの連帯を訴えたこの作品は、時代錯誤として捉えられてしまいました。
大画面をまとめる構成力と、美しい明暗対比、そして何よりも人物描写の巧みさは、舌を巻くほど。ただ、これがナショナリズム高揚ために描かれたのかと思うと、作品が素晴らしいが故に、やや複雑な気持ちにもなりました。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2017年3月7日 ]■ミュシャ展 に関するツイート