中村研一の遺族から寄贈された作品を中心に約800点の作品を所蔵する、
はけの森美術館。展覧会は所蔵作品だけで中村の初期から晩年までを網羅する、同館ならではの企画です。
中村研一は福岡県宗像郡生まれ。2歳上の児島善三郎の誘いで絵画に親しむようになります。鹿子木孟郎や岡田三郎助に学んだ後に、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。卒業翌年の帝展で特選を受賞するなど、画家として順調なスタートを切りました。
初期の作品は、当時主流だった外光派風の作品を描く一方で、レンブラントやドラクロワなどオールド・マスターの技法も研究。渡仏後はレアリスムの画家モーリス・アスランから強く影響を受け、太い輪郭線や灰色の階調など、特徴的な自身のスタイルを確立していきました。
第1章「画業のはじまり」、第2章「渡仏時代から戦前まで」藤田嗣治などこの時代の画家に共通しますが、中村も戦争記録画を数多く手掛けています(ちなみに藤田と中村は親しく交友しています)。戦争画の要といえるのが、確実なデッサン力。中村の画力は、時代の要請を十二分に満たすものでした。
会場で最も目立つ大作は《シンガポールへの道》。戦争記録画を制作する様子は当時の新聞でも紹介されており、アトリエで兵士にポーズを取ってもらいながら描いたとも言われています。
中村は空襲で初台のアトリエを失ったため、小金井に転居。戦後も日展や光風会展で作品を発表、1950年には日本芸術院会員なるなど活躍を続けました。
戦後の作品は、時代の変化を反映したような明るい色彩が特徴です。富子夫人を描いた数々の作品も、美しい色彩が目をひきます。
第3章「戦時下」、第4章「戦後から晩年まで/小金井の中村研一」会場2階には陶器も展示されています。1940年代末頃から本格的に作陶を始めた中村。自宅に窯を作る事こそありませんでしたが、備前、信楽、そして九谷などの陶産地を訪れ、当地の名工から指導を受けています。
さらに、雑誌の装幀や、イーゼルやトランクなどの中村の遺品、写真などの資料もあわせて展示されています。
2階会場最後に、
はけの森美術館についてもご紹介しましょう。
かつて中村が住んでいた地に建つ、
はけの森美術館。「はけ」は小金井市南部を東西にのびる崖の事で、武蔵野台地を古多摩川が削ったため、このような地形になりました。
美術館は財団法人中村研一記念美術館から寄贈を受け、10年前の2006年春に開館。美術館の裏手にある建物が旧中村研一住居で、茶室が隣接する趣きがある建物です。美術館周辺は「美術の森」として整備されており、夏には蛍の姿も見られるそうです。
はけの森美術館の裏手にある、旧中村研一住居中村は1967年に72歳で死去。《コタ・バル》など米国に接収された戦争記録画が「無期限貸与」という形で日本に返還されたのは、3年後の事でした。
戦争画への注目もあり、近年になって再び評価の動きが進んでいる中村研一。館蔵品の貸出要請も数多くあるそうです。都心部からは若干離れますが、周辺の自然とあわせてお楽しみ下さい。これからの季節は、虫よけスプレーをお忘れなく。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年3月29日 ]■中村研一 に関するツイート