岡本太郎の写実的な作品は、今まで知られていなかったわけではありません。父・岡本一平や、親交があった詩人の横光利一のデスマスク、あるいは戦時中に上官を描いた油彩の肖像画など、数点の作品は知られていました。ただ、これらはあくまでも例外的なもの。特に自画像については、長年、太郎のパートナーだった岡本敏子が「岡本太郎に自画像は無い」と語っていたため、現・岡本太郎記念館長の平野暁臣氏(敏子の甥)も、そう思っていました。
1996年に太郎が死去。アトリエを岡本太郎記念館として公開した敏子も2005年に死去し、太郎が残した膨大な資料はそのままになっていました。本年、太郎の生誕100年を迎えるにあたり、資料の整理を始めたところ、紙の間からひょっこりと出てきたのが、今回公開された岡本太郎の自画像です。作品名は記されてなかったものの、どうみても太郎自身の顔。今まで存在しないと言われていた「岡本太郎の自画像」が見つかった瞬間でした。
これが、大発見となった「岡本太郎の自画像」です一緒に見つかった作品から、描かれたのは1947年前後と思われます。1947年は、太郎が新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言し、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた記念すべき年。ただ、写真に残っている強気の顔とは異なり、自画像の太郎はどことなく不安そうな表情にも見え、太郎の意外な一面が伝わってくるようにも感じられます。
岡本敏子を描いたデッサン。凛とした敏子の雰囲気が伝わってきます本展では、同じように資料の中から見つかった敏子を描いたデッサン(1950年ごろ)や、少女の水彩画、中央公論に掲載するために描いた挿絵など、一般初公開の作品が多数出展されています。かつては「芸術は爆発だ」で知られ、今ふたたびブームが起きている岡本太郎の新たな一面を垣間見れる展覧会でした。
「中央公論」への挿絵。長さは「寸」で書かれています最後に、岡本太郎記念館についてご紹介します。東京・青山にある同館は、岡本太郎のアトリエ兼住まいであった空間を、太郎の死後に敏子が開放したもの。太郎はここに1954年から50年以上にわたって暮らし、仕事をしてきました。床には絵の具が飛び散り、棚には多数のキャンバスがあるアトリエは、当時のままの状態で残されています。また、庭に面したリビングには無数の太郎の作品が置かれており、建物そのものから岡本太郎のパワーが溢れているようです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2011年6月28日 ]岡本太郎記念館のリビングルーム。陽光が降り注ぐ庭にも、太郎の作品が置かれています。岡本太郎のアトリエ。棚にはキャンバスがいっぱい。太郎は同時に複数の作品を手がけていたといいます。