1908年(明治41年)新潟県新発田市に生まれた末松正樹(-1997)は、幼少の頃から、軍人でありながら学究肌で、日露戦争時の功勲により2年間の英国留学を経験し、英国風の人生観を身につけて帰国した父・四郎の影響を強く受け、父がイギリスからアルバムにして持ち帰ったヨーロッパ名画の絵葉書を何度も繰り返し眺めて育ちました。それ以来、末松正樹にとって絵画は常に身近な存在でしたが、旧制新潟中学、旧制山口高等学校文科に学び、高等学校時代に観たドイツ映画「聖山」(1927)の中で、女優レニ・リーフェンシュタールの踊るノイエ・タンツ(20世紀初頭にドイツの舞踊家ルドルフ・フォン・ラヴァン、マリー・ヴィグマンらによって始まったモダン・ダンスで日本にも舞踊家の執行正俊らによって伝えられた)に関心を持ち、次第に絵画よりも舞踊研究にのめりこんでいきました。
1939年、31歳になった末松正樹にとって初めての、しかしのちに第二次世界大戦を通して7年間にもおよぶ波乱の滞仏生活を体験し、帰国後画家として自立するきっかけとなった欧州旅行も、始めは絵画を学ぶためではなく、ノイエ・タンツ発祥の地ベルリンを訪れることが目的でした。革命150周年記念の祝祭に湧くパリで、末松は数多くのアーティストたちと交流し、さまざまなアートのエキスを体いっぱいに吸収することになりました。その後ドイツに向うはずでしたが、戦争が始まって不可能となり、フランスに居残る決意を固め、苦労をしながらも美術の勉強を続けました。そんな中、マルセイユ領事館勤務の話を受けた末松正樹は、パリ陥落1週間前にマルセイユに向いますが、そこには同じくパリを逃れた多くのアーティストが集い、さながらモンパルナスの様相を呈していました。しかし間もなくここも戦場となることが必至となり、スペインへ避難する途中、国境に近いペルピニアンで抑留され、結果この地に約1年間余留まることとなりました。不自由な抑留生活の中でも、絵を描きたい、舞踊を舞いたいという気持ちの募る中で描きためたデッサンは数百枚に及びました。苦難の滞仏生活ではありましたが、いつも身近にあった多くの善意とアーティストたち(マネシエ、エルバン、バゼーヌ、エルンスト、レジェ、マチス、井上長三郎夫妻など)の励ましは、画家としての末松正樹を大きく育んだと言えるでしょう。
戦後は自由美術家協会や主体美術協会で発表を続け、国際展にも数多く o品するなどの旺盛な作家活動の傍ら、戦時下をフランスで過ごした貴重な体験とパリ画壇の状況を講演、対談、雑誌等でつぶさに報告しています。また、1953年から多摩美術大学教授として、創造のプロセスとヨーロッパの美意識を若者たちに伝える役目を果たしています。