牧島如鳩(まきしま・にょきゅう、1892-1975)は、現在の栃木県足利市上渋垂町に生まれました。父の閑雲はハリストス正教を信奉し南画家でもあった教養人で、幼児洗礼を受けた如鳩は父から絵の手ほどきを受け幼い頃からその画才を現しました。16才で御茶ノ水にあるニコライ堂の神学校に入学。そこで日本最初のイコン画家である山下りん(1857-1939)よりイコンを学んだとされています。卒業後は伝教者として各地のハリストス正教会に赴任してイコンを制作しました。
それと並行し、如鳩は早い時期から仏教の勉強や仏僧との交流を通じ仏画を描いていました。自らの私的な経験による死者とのかかわりによって彼独自の特異な宗教画が生み出されてゆくことになります。
最初の油彩による仏画《涅槃図》が描かれた契機となったのは妻静子の死でした。結核のため27才でこの世を去った妻の供養のために如鳩は10年をかけてこの画を描き、伊東の朝光寺に奉納したのです。また、1945年東京大空襲の際にニコライ堂は遺体の安置場所となりましたが、その悲惨な状況のなか世界平和を希求して《誕生釈迦像》は描かれました。イコンの画法を応用し描かれたその仏画には、仏画でなくては託し切れなかった如鳩の悲痛な思いが表れています。
戦後如鳩は福島県いわき市の小名浜に滞在し、日本古来の神道を背景にキリスト教と仏教を習合した代表作を生み出します。不漁に悩む地元漁師の依頼により描かれた《魚藍観音像》は、鰯の稚魚が入った器を手にした魚藍観音が小名浜港上空に飛来した様が描かれ、画面左側に天使とマリア、右側には菩薩と天女が配置されています。完成したこの絵を人々はトラックの荷台にのせて町を練り歩き、以後港では大漁が続いたと言われています。
生前如鳩は「500年後の人々に自作を見てもらいたい」と語っていました。本展において(500年を待たずして)如鳩の生涯にわたる作品をご覧いただくことで、ひとつの宗教のありよう、そしてひとつの芸術のありようを通し、私たちが現に生きる今・ここに、またこれまでとは異なる視点をお持ちいただくことができれば幸いです。