再興日本美術院(院展)黎明(れいめい)期の20年間、10歳年長であった木彫の平櫛田中と共に、彫塑の主軸として活躍した藤井浩祐は、優美な裸婦像で広く知られました。
藤井浩祐(1882~1958、のち1953年より浩佑)は、明治15年(1882)に東京神田錦町に生まれ、東京美術学校に入学して彫刻を学びました。卒業後、文展にロダン風の写実的な表現手法に基づきながら、炭坑で働く人々など社会の底辺に生きる労働者に目を向けた作品を発表して注目を集めます。
大正5年(1916)、日本美術院の同人に加わり、昭和11年(1936)に脱退するまで、平櫛田中(1872~1979)とともに彫刻部の主軸として活動を行うと同時に、こうした展覧会芸術にとどまらず、建築装飾や全国中等学校野球選手権(現・全国高等学校野球選手権大会)の大会参加章を制作するなど、社会との接点を求めた活動も積極的に行いました。
また、美術に関する執筆も多く、美術雑誌における展覧会評をはじめ、彫刻の技法・啓蒙書である『彫刻を試る人へ』(中央美術社、1923年)などによって、同時代の美術関係者、彫刻志望者たちに大きな影響を与えました。
さらに大正期に、その頃全国的に拡がりをみせた児童教育の変革運動を承けて、東京府内(現・東京都内)の小学校で自らの考えに基づく「自由彫塑」の指導を実践しています。
このように生前の浩祐は彫刻の普及にも大きく貢献し、昭和12年(1937)に帝国芸術院の会員(戦後は日本芸術院会員)に選ばれていますが、アトリエが戦災で焼失し、主だった作品が失われたことも災いして、今日まで十分な検証が行われたとは言い難い状況にあります。
初の本格的な回顧展である本展では、日本における美の女神の創造を生涯の理想とした藤井浩祐の歩みを折々の代表作でたどりつつ、彫刻を中心とする彼の幅広い領域の活動を紹介し、近代日本彫刻史における業績を顕彰いたします。