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レポート
柳瀬正夢1900-1945 時代の光と影を描く
神奈川県立近代美術館 葉山 | 神奈川県
空襲で命を落とした、天才画家の生涯
15歳で再興院展に入選、32歳で治安維持法違反で逮捕、45歳で空襲のため死去…。その生涯は短くとも、精力的な創作で力強い足跡を残した柳瀬正夢(やなせまさむ)の全貌を、絵画や資料など約650点で振り返ります。
(右)《無題Ⅲ》
(左手前)《河と降る光と》
(左)《果樹島園》
(左手前)《自画像》
(右から)《土方寧君[原画]》《若槻君[原画]》
(左手前)《五月の朝と朝飯前の》
(右から)《被災地》《震災後の浅草伝法池》
(左手前)《「読メ!無産者新聞 全民衆の味方」ポスター》《「無産者新聞基金募集に応ぜよ!」ポスター》
(左)《緑都 景山より北京西城区及び西山をのぞむ》
柳瀬正夢は1900年、松山市生まれ。11歳で門司市(現北九州市)に移り、小倉で見た展覧会をきっかけに画家を目指すようになります。

若干15歳で出品した《河と降る光と》が、第2回再興院展に入選。一躍、天才少年として注目されるようになりました。


動画の最後が、15歳で再興院展に入選した《河と降る光と》

上京した柳瀬は読売新聞に入社。当時の社員名簿にも、編集部にその名が残ります。政治家などの似顔絵を描き、新聞漫画家として活躍しました。

一度は退社するも、読売新聞漫画部の創設にともなって再入社。子供向け漫画の他、フォトモンタージュなども手掛けています。

柳瀬は読売新聞とは縁が深く、新聞社を離れた後も、柳瀬の個展で正力松太郎社長が作品を購入するなど、個人的な関係は続きました。《緑都 景山より北京西城区及び西山をのぞむ》も正力松太郎が購入したもので、本展で戦後初公開となりました。


動画の最後が《緑都 景山より北京西城区及び西山をのぞむ》

柳瀬は未来派の美術運動にも関心を寄せており、1923年には村山知義、尾形亀之助らとともに「MAVO(マヴォ)」を結成します。「MAVO(マヴォ)」という名称を発案したのも柳瀬ですが、由来は分かっていません。

7月に開催された第1回展には、《五月の朝と朝飯前の》を出品しました。パレットナイフ、ペインティングナイフ、櫛の歯、紐や釘などを用いて、絵の具を引っ掻いたり押し付けたりして描いた作品です。

ただ、その後は村山との思想的な隔たりもあり、MAVOとの関係は続くものの、積極的な交流ではなくなりました。


《五月の朝と朝飯前の》と、MAVOでの活動

油彩画で世に出た柳瀬ですが、1920年半ばから30年代初頭にかけては絵画を批判。「資本主義のデコレーション」とまで断言します。

この時期の柳瀬はプロレタリア運動に身を投じ、漫画とグラフィック・デザインに注力していました。

「赤旗」が発行されるまで日本共産党の唯一の機関紙だった「無産者新聞」のポスターなどを手掛けますが、1932年に治安維持法違反容疑で逮捕。約1年にわたって拘留されることとなります。


プロレタリア活動の末、治安維持法違反容疑で逮捕されます

拘留中に妻が死去した柳瀬。周辺の勧めもあり、再び油絵を手掛けるようになります。

さらに中国各地を訪れて写真を撮ったり、子ども向けの絵雑誌を手掛けたりと、戦時中の厳しい制限の中でも、さまざまな創作活動を進めました。

1945年5月25日、疎開中の長女を見舞うために訪れた新宿で空襲に遭い、45歳で死去。遺作は東京新聞の新聞小説「をがむ」の挿絵です。


遺作は東京新聞の新聞小説「をがむ」の挿絵でした

北九州市立美術館から巡回して来た本展。葉山での展覧会の後には、愛媛県美術館(4月5日~5月18日)に巡回します。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年2月12日 ]

柳瀬正夢全集 第1巻

柳瀬正夢全集刊行委員会 (編)

三人社
¥ 15,000+税

 
会場
会期
2014年2月11日(火)~3月23日(日)
会期終了
開館時間
9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日
月曜日休館
住所
神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1
電話 046-875-2800
公式サイト http://www.moma.pref.kanagawa.jp
料金
一般 1,000(900)円/20歳未満・学生 850(750)円/65歳以上 500円/高校生 100円
※()内は20名以上の団体料金
※中学生以下、障害者手帳をお持ちの方は無料です。
※その他の割引につきましてはお問い合わせください。
展覧会詳細 柳瀬正夢1900-1945 時代の光と影を描く 詳細情報
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