布地に針で糸を刺し、縫い重ねるというシンプルな行為は、世界各地で暮らしや祈りと結びつきながら発展してきました。
東京都美術館では、そうした刺繍の営みに新たな光を当てる展覧会「刺繍―針がすくいだす世界」が開催されています。

東京都美術館「刺繍―針がすくいだす世界」会場
本展では、5人の作家による多様な刺繍表現が紹介されています。順路に沿ってご紹介しましょう。
平野利太郎(1904-1994)は、江戸の刺繍職人の家に生まれ、古典技法を継承しながら独自の表現を追求しました。
伝統に根ざしつつ、日常の風景や植物など身近な題材を写生し、多様な繍いと異素材を用いて作品化。昭和初期の刺繍界を牽引した存在として知られています。

平野利太郎

平野利太郎 ※右は父・松太郎の作品
尾上雅野(1921-2002)は、独学で西洋刺繍を学び、麻地の大画面に羊毛の毛糸を刺して描く「フリーステッチ」を考案しました。絵を描くように刺す独自の手法でメルヘン的な世界を築き上げています。
1966年の初個展以降は、個展開催や雑誌へのデザイン提供、講師活動など幅広く活躍。自由で躍動感のある表現は、今も多くの手芸愛好家に影響を与えています。

尾上雅野

尾上雅野
岡田美佳(1969-)は、ほぼ独学で刺繍技法を身につけ、記憶や身近な情景をもとに刺繍画を制作してきました。細かなステッチに加え、絵具やビーズ、マニキュアなどを使って陰影や質感を表現する点が特徴です。
20年以上にわたる刺繍は、言葉に代わる記憶の記録のように、静かで深い世界を形づくっています。

岡田美佳

岡田美佳
伏木庸平(1985-)は、日常の中で針と糸を手にし、浮かんだイメージを少しずつ刺し進めるスタイルで制作。明確なモチーフではなく、手の動きとともに形が変容していく過程そのものが作品となっています。
刺す行為を「狂う」と表す伏木にとって、制作は心を保つためのひとりの時間でもあります。

伏木庸平

伏木庸平
望月真理(1926-2023)は、50歳を過ぎてインド・コルカタで出会った「カンタ」に魅了され、自らもカンタの制作に取り組み始めました。
古い布を重ね、刺し子の縫いを全面に施すベンガル地方の布文化に学びながら、日常のスケッチを題材にした自分流のカンタを創作。亡くなる前日まで刺し続けました。

望月真理

望月真理
ギャラリーBでは、東京都江戸東京博物館、東京都写真美術館、東京都現代美術館の所蔵品を紹介する展覧会「刺繍がうまれるとき―東京都コレクションにみる日本近現代の糸と針と布による造形」も同時開催。近現代の刺繍文化の広がりを楽しむことができます。
手仕事の奥深さに触れながら、それぞれの作品に宿る時間や想いを味わえる展覧会。刺繍という日常的な営みが、作家によって多様で豊かな表現へと広がっていく様子を体感できます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2025年11月18日 ]