川崎のぼるさんは1941年、大阪生まれ。この世代の多くのマンガ家と同様に、幼い頃に読んだ手塚治虫に憧れてマンガ家を目指しました。
上京して何度か転居した後、三鷹市には1967年から2003年まで居住。マンガ家として最も多忙だった時期を、三鷹で過ごしていた事になります。
会場は、まず「巨人の星」に至る60年代前半の仕事から。スポ根の印象が強い川崎さんですが、意外なほど幅広い作品を描いており、西部劇マンガや忍者マンガはもちろん、少女マンガや怪奇マンガまで展示されています。
会場入口から、第1部「一球入魂 ~ 「巨人の星」連載開始」 会場冒頭のウエスタンハットや鞍は、10代の頃から西部劇ファンだった川崎さんの私物スポ根マンガの金字塔である「巨人の星」は、1966年から連載。実は当時の川崎さんは野球に全く興味が無く、他の連載を抱えていた事もあって、一度は作画依頼を辞退したというエピソードも伝わります。
大リーグボール養成ギプス、消える魔球、瞳の中の炎、滝のような涙…。あまりにも有名な数々のシーンはパロディとして論じられる事も多くなりましたが、改めてじっくりと作画を見ると、約半世紀前とは思えないほど実験的な構成が目に留まります。
もちろん、人気シーンの原画も展示。いわゆる「ちゃぶ台返し」を良く見ると、ちゃぶ台は傾く程度で、ひっくり返っていません。
《巨人の星》1966-71年「巨人の星」を少年マガジンで連載していた頃、川崎さんはライバル誌のサンデーにもアマチュアレスリングをテーマにした「アニマル1」を掲載。両作ともに雑誌の柱となり、ともに表紙を飾る事もありました。
アニメもブームになった「いなかっぺ大将」も、同じ頃に描いていた作品。典型的なギャグマンガですが、連載当初は熱血柔道マンガだった事はあまり知られていないかもしれません。
「荒野の少年イサム」は西部劇ファンだった川崎さん渾身の大作。「てんとう虫の歌」は両親を亡くした七人兄弟の心温まる物語。ストーリー・作画とも硬軟自在の創作を続けました。
第2部「一騎当千 ~ 汗と涙と笑いと」第3部ではデビュー時の作品が紹介されます。
1950年代後半のマンガ界は、出版社が刊行する雑誌マンガと、貸本屋(現在のレンタルビデオ店のようなもの)向けに作られる貸本マンガがあり、川崎さんは貸本マンガでデビュー。デビュー作「乱闘炎の剣」は、若干16歳の作品でした。
その後も時代マンガを中心に、現代アクションマンガ、西部劇マンガと活動の幅を拡大。雑誌マンガに移った後にすぐ活躍できたのは、この時代の研鑽があったからこそです。
第3部「一意専心 ~ マンガ家・川崎のぼる誕生」展示室後半は、70年代中頃から近年の活動まで。大人向けのマンガ誌が増える中、川崎さんも少年誌だけでなく青年誌まで活動の幅を拡大していきます。ちなみにカルト的な人気を誇る「新巨人の星」は、週刊読売で連載されました。
川崎さんは2003年に奥様の故郷である熊本県に移住。絵本の挿絵などを手掛けるともに、地域の学校などに設置される壁画レリーフの原画を制作。子守唄で知られる五木村のキャラクター「いつきちゃん」も創案するなど、地域に根ざした活動も続けています。
第4部「一所不在 ~ 少年誌から青年誌へ」 / 第5部「心機一転 ~ 絵本・イラスト・熊本での活動」「巨人の星」に絞った原画展は開かれた事がありますが、川崎さんの画業を総覧する展覧会は、意外にも本展が初めて。また、今のところは巡回予定もなく、
三鷹市美術ギャラリーだけでの開催です。会場はJR三鷹駅と直結、平日も20時まで開いてます(入館は19時半まで)。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年8月21日 ]