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SOMPO美術館 50周年記念インタビュー ①
─ 新宿からアートを発信し続ける、企業と画家の「絆」

(左から)古舘 遼(SOMPO美術館 学芸員) / 中島 啓子(SOMPO美術館 上席学芸員)
2020年、西新宿に独立した新館を構え、館名を新たに「SOMPO美術館」へと改称した同館。そのコレクションの核には、今もなお日本最大級を誇る東郷青児作品が深く息づいています。
戦前の昭和モダンから新宿の超高層ビル時代、精度を高めた現代へ――。長きにわたる企業と画家の関係と、時代とともに姿を変えながら受け継がれてきた「東郷美学」の魅力について、2人の学芸員にお話を伺いました。
■ まずは、損保ジャパン(当時・東京火災)が東郷青児氏をパートナーに選んだ経緯を教えていただけますか?
中島:コレクションの基礎となった両者の関係は、戦前の「昭和モダン」と呼ばれた1930年代まで遡ります。当時、日本は重工業化が進み、関東大震災からの復興を経て、街がガラリと変わっていく激動の時代でした。損害保険ビジネスも新時代の幕開けとともに勢いよく広がるなか、会社は保険案内などの印刷物をモダンに刷新しようと考えたのです。
■ そこにフランス帰りの東郷氏の感覚がフィットしたのですね。
中島:そうです。東郷は7年間のフランス滞在を終えて1928年に帰国し、出版やデザイン分野でも仕事を得ようとしていました。新しいイメージを求める会社に、印刷会社が彼を推薦したのが始まりです。今でいうアートディレクターのような立ち位置で、企業イメージを作る印刷物のデザインを東郷が手がけることになりました。

戦前~戦後に、東郷青児が手掛けた保険案内パンフレット類
■ 美しい女性像と「保険」は一見結びつかないようですが、いかに共鳴したのでしょうか。
中島:最初に会社側が相談に訪れた際、東郷が「これなんかどう?」と差し出したのが、二科展に出品したばかりの女性画だったそうです。会社はそれを採用し、以降、モダンな自動車や飛行機のレイアウトとともに東郷の描く女性像がパンフレットを飾り、顧客の間で定着していきました。
■ そこから有名な「カレンダー」へ繋がっていくのですね。
中島:はい。宣伝用カレンダーに東郷の絵を印刷して使用する関係が、戦後の安田火災時代も長く続きました。毎年少なくとも1点ずつ会社が作品を購入し、この積み重ねが現在の日本最大を誇る東郷青児コレクションの一部となったのです。印刷物を通じて画家との関係が築かれていきました。

中島 啓子(なかじま けいこ) SOMPO美術館 上席学芸員。1997年入社。収蔵品の管理においては主に東郷青児作品を専門的に担当してきた。
■ 1976年、新宿の超高層ビル42階に美術館がオープンします。東郷氏は設立時のアドバイザーとして、どのような美術館を目指していたのでしょうか?
中島:東郷は1976年の開館から2年間、当館の顧問を務めており、本人の意向や哲学が強く反映されています。彼が戦後に主導した二科会でこだわったのは「美術家たちが自立して、自分たちのやりたい展覧会を開ける場所にしたい」ということでした。戦時中の統制で自由な発表ができなかった苦しい時代を経験していました。その反省から、企業(安田火災)と協力して美術館を作る際にも、「画家たちの自由な活動を支援する場所」という思想を根底に持っていたのだと思います。
■ 美術館ではどのような形で具現化されたのですか?
中島:若い画家の表彰や、当時は少なかった中堅画家への顕彰制度(東郷青児美術館大賞)を立ち上げました。これは形を変え、現在の公募展「FACE展」へと受け継がれています。また、東郷が二科会を通じて培った国際的なネットワークを活かした海外作家の紹介など、その志は今の同館の国際的な展示活動へと脈々と繋がっています。

超高層ビル42階時代、展示室の最後を飾っていた名画と東郷青児コレクション
■ ここからは古舘学芸員にお話を伺います。古舘さんは入社前、この美術館にどのようなイメージを持っていましたか?
古舘:私が初めて足を運んだのは中学2年生だった2001年、名称が「損保ジャパン東郷青児美術館」となる前年です。42階の展示室の最後には必ずゴッホの『ひまわり』やゴーギャン、セザンヌ、そして東郷青児の作品が並んでおり、その光景が強烈な原風景として残つていました。
■ 2020年に新館へ移行し、現在の館名に変わったときはどう感じましたか?
古舘:ファンとして寂しさはありましたが、館名変更は歴史をベースにしながらも新しいことに挑戦する強い姿勢の表れだと受け止めました。ここで働くことが決まったときは、新しくなった場所で新宿に根ざしたアートの試みを思い切りやろうとモチベーションが湧いてきました。

古舘 遼(ふるたて りょう) SOMPO美術館 学芸員。2023年入社。近代美術を主な担当とし、50周年記念展「モダンアートの街・新宿」の担当を務める。
■ 新館のロゴマークには、東郷氏の《超現実派の散歩》のモチーフが使われています。この作品を選んだ理由は何でしょうか。
中島:館名から東郷の名前が外れるからこそ、どこかに彼に触れられる明確なシンボルを残したいという思いがありました。ただ、お馴染みの女性像をロゴにすると印象が強すぎ、「東郷青児『専門』の美術館」という固定観念を抱かせる懸念があったのです。同館はゴッホも現代公募展もやる、多様な美術館ですから。
■ なるほど、それで少しモダンな《超現実派の散歩》に白羽の矢が立ったのですね。
中島:はい。この作品は予備知識のない子供たちが見ても直感的にアートの楽しさを感じてもらえる力を持っています。小学生の鑑賞会でも圧倒的に目を引くんです。女性像という一面的な見方だけでなく、彼のデザインやシュルレアリスムへの関心を含む多面性を伝えるためにも、このニュートラルでインパクトのあるモチーフがベストだと判断しました。

東郷青児《超現実派の散歩》をモダンに意匠化した新生・SOMPO美術館のシンボルマーク
■ 最後に、日本最大の東郷コレクションを今後どのように受け継ぎ、展開していきたいか思いをお聞かせください。
中島:日本一の規模ですが、東郷の長い画業の中にはまだ手元にない「ミッシングリンク(空白の時代)」の作品も存在します。今後はそうした部分を少しでも補完し、生涯を体系的に辿れるようにコレクションを整えたいです。また、戦前の貴重な会社資料やアーカイブなども分かりやすく公開し、「同館だからこそ語れる東郷青児の姿」を発信していきたいです。
古舘:私は、先輩方が守ってきたコレクションを若い世代に繋ぐため、今の時代ならではの「新しい東郷の見方」を提案し続けたいです。担当した開館50周年記念展「モダンアートの街・新宿」もその挑戦でした。東郷を大正・昭和の新宿というカルチャーの文脈に置いてみることで、当時の「新しさ」が現代の若い人たちのレトロカルチャーへの共感ともシンクロし、新たな魅力として見えてくるはずです。長い協働関係から始まったこの場所を大切にしながら、未来へと開かれた美術館にしていきたいと思っています。

古舘学芸員が企画・担当した、開館50周年記念展「モダンアートの街・新宿」の展示風景
[ 取材・撮影・文:古川幹夫・坂入美彩子 / 2026年5月27日 ]