1944年に死去したムンク。遺言により、残っていた作品はすべてオスロ市に遺贈され、オスロ市立ムンク美術館が1963年に開館しました。同館は、新館建設のプロジェクトが進んでいます(2020年夏に開館予定)。
展覧会は同美術館の所蔵作を中心に、初期から晩年まで幅広い作品を紹介。60年に及ぶ長い画業をたどります。
ムンクは1863年生まれ。5歳で母を、14歳で姉を失うなど(ともに結核)、“死”を身近に感じる境遇で育ちました。「病める子」は、姉を題材にした作品で、他の作品同様、同じテーマで複数の作品が制作されています。
26歳の時、オスロ・フィヨルドを臨む漁村、オースゴールストランへ。北欧の短い夏の白夜は、ムンクにとって格好の画題になりました。月と、海に反射して柱のように長く伸びる月光は、ムンクの作品に繰り返し現れるモチーフです。
1889年からは文学的な散文を書き始め、自然主義からの脱却を宣言。内面に目を向け、象徴主義的な、よく知られるムンクのスタイルに向かっていきます。
1892年は、ムンクにとって大きな転換期となりました。ベルリンで個展を開催するも、印象派すら広まっていなかったこの地でムンクの作品は刺激が強すぎ、わずか1週間で閉幕に。画家にとっては不幸な出来事でしたが、ムンクの存在は注目を集める事となります。
展覧会目玉の《叫び》は、《接吻》《吸血鬼》《マドンナ》などとともに、愛、死、不安を主題とする連作〈生命のフリーズ〉に含まれる作品。「叫び」は版画をのぞいて4点現存し、今回展示されているテンペラ・油彩画の《叫び》(1910年?)は、初来日です。
画家としての地位を固める一方で、酒に溺れ、私生活は荒れていったムンク。1902年には結婚を迫る恋人との諍いで銃が暴発、左手中指の一部を失っています。男女を主題にした作品も数多く制作。悲劇的ながらも官能性に満ちた《すすり泣く裸婦》は、特に印象に残ります。
晩年は祖国からも勲章を受け、国立美術館で主要作品が購入されるなど評価は確実なものとなりましたが、最晩年に訪れた悲劇がナチスの台頭。1937年にはドイツ国内にあったムンク作品82点が「頽廃芸術」として押収されてしまいました。
80歳の誕生日直後に、付近の港でのナチスによる爆撃で家の窓ガラスが吹き飛び、寒さから気管支炎に。1カ月後、自宅で独りで亡くなりました。
極めて知名度が高い画家にもかかわらず、日本におけるムンクの大規模展は11年ぶり。巡回はなく、
東京都美術館だけでの開催です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2018年10月26日 ]※作品はすべてオスロ市立ムンク美術館所蔵。All Photographs ©Munchmuseet