兄・豊臣秀吉を支え、戦場では総大将として、政権では調整役として活躍した豊臣秀長。秀吉にとって、最も身近で信頼できる「右腕」でした。
2026年の大河ドラマと連動し、これまで秀吉の陰に隠れがちだった秀長の人物像に光を当てる展覧会が、江戸東京博物館で開催。秀長と秀吉を軸に、戦国から天下統一へと向かう時代をたどります。

江戸東京博物館リニューアル記念・NHK大河ドラマ特別展「豊臣兄弟!」会場入口
プロローグ「武と智の兄弟」では、豊臣秀吉と秀長、二人の関係から物語が始まります。
前半生には不明な点も多い秀長ですが、秀吉とともに織田信長に仕え、やがて豊臣一門大名の筆頭として活躍。戦場では総大将や主力軍を任され、政権でも兄を支えました。秀長の死後、文武と徳を兼ね備えた人物だったと、その死を惜しまれています。

プロローグ「武と智の兄弟」
第1章「転戦の日々」では、信長の家臣として各地を転戦し、秀吉と秀長が勢力を拡大していく過程をたどります。
秀長は伊勢・長島一向一揆攻めをはじめ、中国方面では但馬や播磨、因幡などを転戦。本能寺の変後には秀吉とともに山崎の戦いに参加し、続く賤ヶ岳の戦いでも前線の指揮官を務めるなど、天下人への階段を上る兄を支えました。

第1章「転戦の日々」
《賤ヶ岳合戦図屏風》は、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いを描いた屏風です。右隻には、虎皮の陣羽織を着て日の丸の扇を持つ秀吉の姿が確認できます。
左隻では柴田勢が砦を攻める様子が描かれ、田上山砦には秀長の陣も。兄弟がそれぞれの持ち場で戦いに臨んだ様子を、一双の屏風から見ることができます。
![江戸東京博物館「江戸東京博物館リニューアル記念・NHK大河ドラマ特別展『豊臣兄弟!』」会場より 《賤ヶ岳合戦図屏風》江戸時代 長野・佐久市教育委員会[全期間展示]](https://www.museum.or.jp/storage/article_objects/2026/09/17/4b88ba72a84f.jpg)
《賤ヶ岳合戦図屏風》江戸時代 長野・佐久市教育委員会[全期間展示]
第2章「天下一統」では、秀吉が天下人へと上り詰めるなかで、さらに存在感を増していった秀長に注目します。
四国攻めでは病の秀吉に代わって総大将を務め、九州攻めでも豊臣勢最大の兵力を率いました。秀長は紀伊・和泉・大和の3か国を領し、最終的には大納言に就任。大和郡山を本拠としたことから「大和大納言」と称されました。

第2章「天下一統」
《御所参内・聚楽第行幸図屏風》は、天正16年(1588)、後陽成天皇が秀吉の聚楽第へ行幸した様子を描いた作品です。
右隻には天皇の行列、左隻には桐紋を施した絢爛豪華な牛車に乗る秀吉の行列を描写。天下一統を目前にした秀吉の権勢を伝えています。
![江戸東京博物館「江戸東京博物館リニューアル記念・NHK大河ドラマ特別展『豊臣兄弟!』」会場より 《御所参内・聚楽第行幸図屏風》江戸時代 17世紀 小林英好氏(上越市立歴史博物館寄託)[全期間展示]](https://www.museum.or.jp/storage/article_objects/2026/09/17/cab9e92255f3.jpg)
《御所参内・聚楽第行幸図屏風》江戸時代 17世紀 小林英好氏(上越市立歴史博物館寄託)[全期間展示]
天正18年(1590)、小田原攻めで北条氏を滅ぼした秀吉は宇都宮城に入り、東北地方の大名に対する奥羽仕置を行いました。
重要文化財《銀伊予札白糸威胴丸具足》は、その秀吉が伊達政宗に与えたと伝わる具足。革札に銀箔を押して白糸で威した胴など、軽量化を意識したつくりにも注目です。
![江戸東京博物館「江戸東京博物館リニューアル記念・NHK大河ドラマ特別展『豊臣兄弟!』」会場より 重要文化財《銀伊予札白糸威胴丸具足》豊臣秀吉所用 桃山時代 16世紀 宮城・仙台市博物館[展示期間:9/15~10/12]](https://www.museum.or.jp/storage/article_objects/2026/09/17/06cf603f2337.jpg)
重要文化財《銀伊予札白糸威胴丸具足》豊臣秀吉所用 桃山時代 16世紀 宮城・仙台市博物館[展示期間:9/15~10/12]
第3章「大和入国」では、大和郡山を本拠とした秀長の領国経営に目を向けます。秀長が大和を与えられたのは、天正13年(1585)のことでした。
秀長は郡山城の普請を進める一方、商人の移住を促し、従来の座を停止するなど城下町を整備。江戸時代を経て現在へとつながる郡山の都市基盤が築かれていきました。

第3章「大和入国」
秀長のもとには、藤堂高虎をはじめ優れた家臣が集まり、軍事や領国支配を支えました。
重要文化財《藤堂高虎像》は、黒袍に浅葱色の指貫を着け、右手に笏を持つ高虎を描いた肖像です。画面上部には南光坊天海による賛が記されています。
![江戸東京博物館「江戸東京博物館リニューアル記念・NHK大河ドラマ特別展『豊臣兄弟!』」会場より (右)重要文化財《藤堂高虎像》江戸時代 17世紀 三重・天台真盛宗別格本山西蓮寺[展示期間:9/15~10/12]](https://www.museum.or.jp/storage/article_objects/2026/09/17/ecd9623e5786.jpg)
(右)重要文化財《藤堂高虎像》江戸時代 17世紀 三重・天台真盛宗別格本山西蓮寺[展示期間:9/15~10/12]
第4章「時の権力と美」では、秀吉・秀長と、能や茶の湯をはじめとする文化との関わりを紹介します。
秀吉は能と茶の湯を好み、秀長も郡山で武将の接待や奈良の人々との交流に能や茶席を活用しました。千利休をはじめとする数寄者や職人が生み出した工芸品は、豊臣一族の権威を示す役割も担いました。

第4章「時の権力と美」
重要文化財《秋草蒔絵天目台》は、天目茶碗を載せるための台です。全体に金平蒔絵で菊や薄、紅葉などの秋草が散らされています。
絵梨子地や付描、針描など、「高台寺蒔絵」と呼ばれる様式の技法を用いた華やかな作品。桃山時代の工芸を象徴する一品です。
![江戸東京博物館「江戸東京博物館リニューアル記念・NHK大河ドラマ特別展『豊臣兄弟!』」会場より 重要文化財《秋草蒔絵天目台》桃山時代 16世紀 京都・高台寺[全期間展示]](https://www.museum.or.jp/storage/article_objects/2026/09/17/fb5b68860106.jpg)
重要文化財《秋草蒔絵天目台》桃山時代 16世紀 京都・高台寺[全期間展示]
《肩衝茶入 銘 薬師院》は、秀長が所持したことが確認できる唯一の茶入です。『山上宗二記』にも「薬師院のかたつき 秀長大納言殿」と記されています。
京都の針屋彦六、堺の薬師院を経て、信長、秀吉、秀長へと伝来。天正15年(1587)正月11日に催された茶会でも使われており、秀長と茶の湯との関わりを具体的に伝えます。
![江戸東京博物館「江戸東京博物館リニューアル記念・NHK大河ドラマ特別展『豊臣兄弟!』」会場より 《肩衝茶入 銘 薬師院》豊臣秀長ほか所用 中国・南宋~元時代 13~14世紀 兵庫・香雪美術館[全期間展示]](https://www.museum.or.jp/storage/article_objects/2026/09/17/9f1513959ec8.jpg)
《肩衝茶入 銘 薬師院》豊臣秀長ほか所用 中国・南宋~元時代 13~14世紀 兵庫・香雪美術館[全期間展示]
第5章は「豊臣の落日」。秀長は天正17年(1589)後半から体調を崩し、湯治や治療、寺社による祈祷も行われましたが、天正19年(1591)1月、郡山で世を去りました。
その後、千利休の死、愛児・鶴松の死、秀次の失脚と、秀吉を取り巻く状況は大きく変化。秀吉の死後は幼い秀頼が豊臣家を継ぎますが、やがて大坂の陣を迎え、豊臣家は断絶します。

第5章「豊臣の落日」
《四ヶ院書状案 新寺月行事宛》は、秀長が亡くなったわずか2日後、天正19年(1591)正月24日の文書です。
秀長との関係が深かった多武峰の新寺・新峰衆に対し、100名規模で葬礼・法要に参加するよう求めたもの。郡山で営まれた秀長の葬送の一端を伝える史料です。
![江戸東京博物館「江戸東京博物館リニューアル記念・NHK大河ドラマ特別展『豊臣兄弟!』」会場より 奈良県指定文化財《四ヶ院書状案 新寺月行事宛》天正19年(1591)正月24日 奈良・談山神社[展示期間:9/15~10/12]](https://www.museum.or.jp/storage/article_objects/2026/09/23/095cfde77b50.jpg)
奈良県指定文化財《四ヶ院書状案 新寺月行事宛》天正19年(1591)正月24日 奈良・談山神社[展示期間:9/15~10/12]
エピローグ「兄弟!再び!」では、秀吉と秀長、二人の関係に再び焦点を当てます。
大友宗麟が大坂城を訪れた際、秀長は「秀吉家中では、内々のことは千利休が、公のことは自分が担っているので、悪いようにはしない」と語ったと伝わります。
秀吉と諸大名との間を取り持つ調整役でもあった秀長。肉親であり、家臣であり、戦友でもあった弟は、秀吉にとって最も頼れる右腕でした。

エピローグ「兄弟!再び!」
秀吉の天下一統を「弟」の側から見直すことで、豊臣政権が一人の力だけで築かれたものではないことが見えてきます。
戦場から政権運営、領国経営、文化まで。兄を支え続けた秀長の足跡から、二人で駆け抜けた戦国の時代をたどる展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2026年9月14日 ]