江戸時代の浮世絵のように、絵師・彫師・摺師の協業で作られる木版画に対して、自画・自刻・自摺を旨とするのが創作版画。平塚運一は創作版画を代表する存在です。
展覧会は年代順で、第1章は「創作版画界の中心へ 1913-1932」。平塚は松江市生まれ。水彩画を絶賛されて洋画家の石井柏亭に入門するも、柏亭は平塚に浮世絵系の彫師・伊上凡骨を紹介。ここでの半年間の修行は、後の創作にとって大きな財産となりました。
作品に目を向けると、初期の作品から実に刀の使い方が多彩。一般的に創作版画家は、伝統木版画への対抗意識もあって、彫師の技術を軽視しがちですが、平塚はその技術をふまえた上で、自在に作品を生み出していきました。
昭和2年には著書『版画の技法』も刊行。日本版画協会や国画会版画部の創立にも尽力し、名実ともに創作版画界の第一人者になっていきます。
第1章「創作版画界の中心へ 1913-1932」第2章は「多色摺の成熟、墨摺の幕開け 1933-1951」。この時期になると、多色摺の作品はますます成熟。鮮やかな色と単純化した構成で、自信に満ちた、鮮烈な大作が目立つようになります。
一方で、墨摺が目立つようになるのもこの時期。平塚は、摺った後に紙をあげて、墨を足して、また摺る「あげ摺り」という独特の手法を用いて、紙の地と深い墨のコントラストが際立つ作品を作っていきます。
輪郭がギザギザになっているのは、木槌でアイスキ(間透:ノミ状の彫刻刀)を叩いて彫る「突き彫り」で生まれたもの。ゴツゴツとした形態表現で、重量感をもたせています。
第2章「多色摺の成熟、墨摺の幕開け 1933-1951」第3章は「黒白の版画は版画の極致である 1952-1961」。最も良い墨摺が出てくるのが、この時期です。
日本の創作版画にとって、1950年代は最も華やかな時代です。国際的な展覧会で版画家たちは受賞を重ね、平塚もその一員として位置づけられました。
平塚は、版画の極地は墨摺であると確信し、大型の墨摺作品を続々に制作していきました。会場には見ごたえがある大きな墨摺がたっぷり。平塚の代表的な墨摺作品の多くは、この時期に制作されたものです。
第3章「黒白の版画は版画の極致である 1952-1961」第4章は「新天地アメリカ 1962-1996」。昭和37年に、三女が住んでいたワシントンD.C.に渡った平塚。1年ほどの滞在予定が、33年間住み続ける事となります。
アメリカの珍しい風景を、平塚は墨摺で制作。現地では東洋的な表現が驚きをもって迎えられ、平塚はアメリカでも活躍を続けます。
70歳を過ぎて夢中になった新たな題材は、なんと裸婦。生命力にあふれる裸婦像を集中的に制作しました。
1994年に帰国した平塚。懐かしい故郷である松江にも帰郷を果たしています。1997年、102歳の誕生日の翌日に死去。版業はなんと80年に及んでいます。
第4章「新天地アメリカ 1962-1996」「彫り上げて いざ摺らんかな 初摺りの この嬉しさを 誰にか語らむ」。この詩を作品に表したのは、59歳の時でした。
いつでも制作の喜びに満ち溢れていた平塚。木版画に全幅の信頼をおいて真っすぐに進んだ、幸福の版画家といえるでしょう。
巡回はせずに、千葉市美術館だけでの開催となります。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2018年7月17日 ]