私たちの身体は、何を失いつつあるのか
井上耕一はデザインリサーチャーとして、1970年代より世界各地に赴き、デザインの視点でのフィールドリサーチを続けてきました。足しげく通ったのは、アジアの主に山間部や国境地帯。そこで井上は、その地で伝統的な暮らしを続けている人々が、いわゆる西洋的な高い椅子を必要とせず、両足の裏を地面につけたまま腰を下ろし、両膝を立ててしゃがんだ姿勢であらゆる行動(くつろぐ、食事をする、料理をする、ものづくりをする、舟をこぐ、勉強をする…)をしていることに気付きます。
井上はこの姿勢を「あの坐り方」と名付け、各地に出かけてはこのポーズで何かをしている人々の写真を記録し続けました。「あの坐り方」の周辺には、たまに高さ10センチ未満の低い「腰かけ」が登場します。それは椅子と呼べるような家具然としたものではなく、しゃがんだ体勢をより長く維持するための、あくまで補助具としての役割を担っています。井上は近年より可能な限り、その実物の収集も続けてきました。
「あの坐り方」は、椅子に慣れた人にはとてもくつろげる姿勢ではないでしょう。しかし、この姿勢に慣れた人は、椅子があってもその椅子の上に「あの坐り方」ですわることさえあるのです。そして井上は、多くの土偶のポーズや近代までの歴史文献から、日本人もかつてはこの姿勢で生活していたことを発見します。さらには「あの坐り方」が二足歩行をする生きものとしての根源的な排泄のポーズでもあることに思い至り、人類誕生の地・アフリカにも「あの坐り方」を求めて旅立ちます。
気候や習慣、人の体型が異なるアフリカ各地でも、「あの坐り方」とその補助具としての腰かけの数々を目撃した井上は、ある日マリのニジェール川の川岸で、いつ来るともわからない渡し舟を待つ女性に出会います。その女性は持参の腰かけにすわっていましたが、井上が頼むと腰かけを譲ってくれました。そして彼女は、そのまま「あの坐り方」で舟を待ち続けたそうです。その一場面には、人類拡散の歴史における長い旅路でも培われた、モノに頼らない本来の身体能力が見て取れるのではないでしょうか。
本展では、井上耕一による30年以上におよぶ〈すわる〉フィールドリサーチから、アジアとアフリカの膨大な写真200枚と、30点以上の腰かけを展示。記録映像も交え、歴史的・建築的観点からの座具や、移動・定住と腰かけの関係も見つめながら、旅するように〈すわる〉を探ります。