尾形光琳筆の国宝《燕子花図屏風》。描かれているのは群生するカキツバタだけですが、その題材は「伊勢物語」第九段の東下り、八橋の場面です。
東国に下る途中、三河国の八橋でカキツバタを目にした主人公。「かきつばた」の五文字を各句の冒頭においた「からころも きつゝなれにし…」と、遠くまで来た心境を歌に詠みました。
古典教養の定番といえる、伊勢物語。絵には橋も人も描かれていませんが、この絵で伊勢物語を思い起こすのは「お約束」です。
伊勢物語が成立したのは、王朝文化が栄えた平安時代という事で、第1章は「王朝文化への憧れ」。江戸時代は武士の時代。貴族の存在は軽視されがちですが、古来から続く王朝文化は、憧れを伴って受容されていました。
第2章は「草花を愛でる」。《燕子花図屏風》は、ここで紹介されています。
使われているのは濃淡の群青と、緑青のみ。近くで見ると、群青がたっぷりと使われている事が分かります。
群青の材料は藍銅鉱(らんどうこう)という鉱石ですが、精製に手間がかかるため、とても高価です。光琳の画業では比較的早い時期に描かれた《燕子花図屏風》ですが、画業への意欲に溢れた、野心的な作品といえるでしょう。
《燕子花図屏風》は、右隻と左隻のデザインが全く異なります。左隻は、池のカキツバタを上から覗き、右隻は遠くから眺めているよう(この感覚は、根津美術館の庭のカキツバタを見れば納得です)。装飾的でありながらも、実際のカキツバタが感じられます。
この章には、光琳が描いた別の草花図《夏草図屏風》も。こちらは、より後の時代に描かれたものです。
左下にはカキツバタも見られますが、《燕子花図屏風》より写実的です。光琳は工房を構えており、弟子である渡辺始興が関与しているかもしれません。
八橋はカキツバタの名所、という事で、第3章は「名所と人の営みを寿ぐ」。展覧会のメインが燕子花図屏風である事は間違いありませんが、ここには大発見といえる注目の作品が展示されています。
根津美術館の《伊勢参宮図屏風》が昨年修理され、本展への展示の準備を進めている段階で、対になる屏風が名古屋市博物館にあることが判明。急遽、並べて展示されました。
名古屋市博蔵が右隻、根津美術館蔵が左隻。あわせると六曲一双で、宮川の渡しから伊勢神宮の内宮に至る、参宮道の賑わいが描かれています。
根津嘉一朗が左隻を入手したのが昭和8年。以前の経緯ははっきりしませんが、少なくとも86年ぶりに、両者が対面した事になります。
先日、紙幣のデザイン変更が発表されましたが、現5,000円札は、表面が樋口一葉、裏面のカキツバタは《燕子花図屏風》です。使われているのは、右隻第六扇と第五扇(右隻の中央寄りの部分)。財布に入っていたら、見比べてお楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2019年4月16日 ]