首都圏では1991年以来となる、大下藤次郎の回顧展。大下の作品を数多く所蔵する
島根県立石見美術館の作品を紹介する企画です。
1870(明治3)年、東京・本郷に生まれた大下。洋画家の中丸精十郎に入門したのは1891(明治24)年で、既に20代。画家としては遅いスタートでした。師である中丸と、次に師事した原田直次郎が相次いで死去したこともあり、結果的にほぼ独学で、油彩ではなく水彩に進みます。
最初期の作品は、お世辞にも上手いとは言い難いレベルです。ここからコツコツと腕を磨いて、文展に出品するまで至ったのです。
最初期の作品は「よく絵描きになろうと思ったな、と思うほど下手である」(千葉市美術館のニュース誌「C’n」71号より)大下が師事した中丸や原田は、いわゆる脂派(やには)/旧派。外光をキャンバスに持ち込んだ黒田清輝らによる紫派(むらさきは)/新派とは相反する一派ですが、大下は脂派でありながら明るい作品が目につきます。これは、支持体である紙の白さが活かされる水彩の特徴でもあります。
描くべき題材を求めて、各地を旅しながら風景画を制作した大下。徐々にテクニックを身につけていきますが、この時期の作品は固さが残り、表現も通り一遍の印象を受けます。
各地で風景画を描きながら、腕を磨いていきました大下は千葉にも足を運びました。1893年には商用で、94年と96年には絵画制作の取材で房総を訪れています。
ユニークな展示品が、館山西方の湾の名が付いた「菱花湾日記」。辛辣な文章と戯画調のスケッチは、旅行から帰った後にまとめられたものです。後に水彩画専門雑誌「みづゑ」を創刊し、編集者としても活躍した大下のセンスが伺えます。
「堀口氏の宅 まづいまんぢうだ」。人の家なのに…この時代の多くの画家と同様に、大下も絵画留学を志します。欧米への留学は叶いませんでしたが、1898(明治31)年、明治美術会の特派員としてオーストラリアを訪問する機会に恵まれます。
この渡航は、その後の大下にとって大きな転機となりました。海外の景色を見た事で、逆に“日本ならでは”の風景を考える事になったのです。
半年に及ぶ渡航で、100枚近くのスケッチを残しました帰国した大下の作品は、表現が明らかに柔らかくなります。空と雲、そして海・川・湖などの姿に“日本ならでは”を見出し、大下ならではの風景画を作り上げていきました。
ただ、大下の真価はむしろここから。苦労して修得した技術を自分のものだけにせず、広く一般に普及させる事を目指したのです。
1901年に刊行した「水彩画之栞」は、日本初の水彩画指導書。水彩画を制作する事で、美術鑑賞力と観察力を養い、自然を愛する心を育み、(自然に親しむために登山をする事で)健康も増進すると、その利点を説きました。平易な文章で分かりやすく説明するとともに、各地で水彩画の講習会も開催しました。
渡航後は明らかに作風が変わりました1911(明治44)年も8月には島根や敦賀で講習会を開催していましたが、9月に体調を崩し、10月に死去。水彩画普及のために多忙を極めた中での殉死ともいえる、42年の生涯でした。
水彩画一本に人生を捧げ、素人同然から普及活動のパイオニアにまで上り詰めた大下藤次郎。ご自分で絵を描いている方はもちろん、心得が無い方も思わず絵筆を取りたくなるような展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年5月19日 ]