異端の作曲家といわれたエリック・サティ。名前は知らなくとも「
ジムノペディ」「
ジュ・トゥ・ヴー」などはCMやゲーム、環境音楽、さらにケータイの着メロなどでも用いられているため、耳にした事がある方も多いと思います。
サティはノルマンディ地方の港町生まれ。パリ音楽院に入学しますが「たいへん居心地が悪く」て退学、1887年にパリ・モンマルトルに移ります。
当時のモンマルトルでは、自由な発想の作家や芸術家たちがキャバレーのシャ・ノワールに集っていました。サティも常連客になり、キャバレーで伴奏者をしていた事もあります。
展覧会の第1章では、ロートレックのポスターなどで世紀末モンマルトルのキャバレー文化を紹介。本展で初めて公開される貴重な楽譜なども並びます。
第1章「モンマルトルでの第一歩」詩人が通う本屋で、サティは常連客だった秘教主義の思想家、ジョゼファン・ペラダンに出会います。ペラダンは主宰する「薔薇十字会」の聖歌隊長にサティを任命。サティも共に活動しますが、サティが会の規則を破った事で両者は袂を分かちます。
サティが破った規則は"純潔"。相手は画家のシュザンヌ・ヴァラドン(ロートレックやルノワールなどのモデルも務めた、ユトリロの母)でした。五線譜に肖像を描くなど、サティはヴァラドンにぞっこんでしたが、半年ほどで破局を迎えています。
第2章「秘教的なサティ」1898年、サティはパリ郊外のアルクイユ=カシャンに移りますが、モンマルトルへ通う生活は変わりませんでした。
地域の人のために音楽教室を開くなど、徐々に活動の幅を広げていったサティ。1911年に作曲家のモーリス・ラヴェルが公の場所でサティの音楽を紹介した事も大きな転機となり、高級モード雑誌の「ガゼット・デュ・ボン・トン」からシャルル・マルタンによる挿絵入りの楽譜集を出版する話が舞い込みます。
壁面に並ぶのが、その楽譜集『スポーツと気晴らし』。ピアノのための21の短い曲からなり、楽譜にはサティによる皮肉を含んだ言葉も散りばめられています。
第3章「アルクイユにて」会場はこの後に、第4章「モンパルナスのモダニズムのなかで」、第5章「サティの受容」と続き、いよいよフランシス・ピカビア、パブロ・ピカソ、マン・レイらの作品が登場しますが、残念ながら本稿でご紹介できるのはここまで。後はサティの音楽が流れる会場でお楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年7月7日 ]■エリック・サティとその時代展 に関するツイート