日本で最初の公立近代美術館として1951年に開館した、
神奈川県立近代美術館の鎌倉館。特徴的な矩形の建物は坂倉準三による設計で、その坂倉と同僚だったシャルロット・ペリアンは、日本と深い関係を持っていました。
展示室1ペリアンは1903年、パリ生まれ。1927年にル・コルビュジエのアトリエに入所し、コルビュジエやピエール・ジャンヌレとともに鉄・アルミニウム・ガラスなど、当時としては新しかった素材を用いた内装を発表し、住宅に新しい概念をもたらしました。
ル・コルビュジエのアトリエで同僚だった坂倉準三はぺリアンに岡倉天心の「茶の本」を贈り、ぺリアンは日本との関わりを持ち始めます。そして1940年、坂倉はペリアンを商工省の「輸出工芸指導顧問」として推薦し、初来日に至ったのです。
展示室1日本で海外向けの工芸品の改良・指導を任される立場となったぺリアンは、柳宗理とともに日本全国をまわって、ヨーロッパのモダン・デザインを指導します。同時に柳宗悦や河井寬次郎らとの交友で「民藝」の理念にも触れ、日本の伝統的な意匠や素材・技術を用いたデザインを手がけました。
1941年の「選擇、傳統、創造展」では、金属で作っていた長椅子「シェーズ・ロング LC4」を竹で作った作品を発表するなど、様々な提案を行ないました。
1階の彫刻室戦火の高まりとともに日本を離れたペリアンですが、1953年に再来日。1955年には東京で開催した展覧会では、違い棚をヒントにした書架など、自身の日本体験を生かした作品を発表しています。
その後も日本との関わりがある仕事を手がけており、エール・フランスの東京と大阪の営業所をデザイン、パリ日本文化祭では茶室を設計、最晩年の1998年にも来日こそできなかったものの、リビングデザインセンターOZONE(新宿)で個展が開催されています。
日本式の浴槽にも興味を示すなど、生活のあらゆる場面で、日本の習慣や美意識に興味を持っていたぺリアン。いかにも快活そうなぺリアンの写真からは、遠い異国の地に深い愛情を感じていた彼女の生きた姿が浮かび上がってくるようです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2011年10月28日 ]