台所や洗面所、ビルや地下鉄の駅、銭湯。様々な柄や色合いをもち多様な用途で使われてきた「タイル」。日本のタイルの役割や歴史を振り返る展覧会が、江戸東京たてもの園で開催中です。

江戸東京たてもの園
「物を覆う」というラテン語で「テグラ=tegula」を意味する「タイル(taile)」。古代エジプトのピラミッド地下空間の壁面を飾ったものが起源とされるタイルは、その耐久性と汚れを落としやすい特性から、中東やヨーロッパをはじめ世界各地に広まります。
第1章 「日本のタイルの源流をさぐる」では、世界のタイルの歴史とともに、瓦から始まった日本のやきものの建材の変遷を辿ります。

江戸東京たてもの園「日本のタイル100年」 展示風景
会場には、世界最古のタイルやイスラーム建築に使われた幾何学形状のものや、中国で作られた煉瓦の一種の「塼」などを展示。レプリカはなくすべて現物を味わえるのも展覧会の見どころのひとつです。

第1章 「日本のタイルの源流をさぐる」 展示風景
日本には、6世紀に仏教とともに「瓦」が伝来。タイルは瓦の延長線上で屋根材や床に敷かれる「敷瓦」や壁に使われる「腰瓦」などとして利用されます。当時は伝来の経緯から25以上もの名称が使われていました。

第1章 「日本のタイルの源流をさぐる」 展示風景
大正時代に入ると、第一次世界大戦の影響で輸出が増加し「大戦景気」となります。 都市部では、大規模なビル建築が計画され外装タイル張りの建築も現れる一方、庶民生活においても生活改善の動きが活発化します。スペイン風邪をはじめ伝染病の流行を防ぐための衛生思想から、木材が使用されていた銭湯の床や浴槽はタイルへと普及していきます。
1922年(大正11)4月12日、上野公園で開催された平和記念東京博覧会での全国タイル業者大会において「タイル」の名称統一が決議されます。複数の呼び名で取引されていた市場の混乱は解消され、タイルは工業製品としてされに普及していきます。

(中央)平和記念東京博覧會全景鳥瞰図 1922年(大正11) 東京都江戸東京博物館所蔵
平和記念東京博覧会の翌年、1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災では10万5千人におよぶ死者や行方不明者が出ます。 以降、大規模な建物は耐震性の高い鉄筋コンクリート造へとシフトしていきます。
1927年に東京地下鉄(浅草~上野間)が開業すると、駅名の表示やホームの壁、広告掲示枠にもタイルが使われます。浅草駅には濃青色、田町駅は薄青色などタイルを色分けし、駅ごとの判別をつける工夫も施されました。

第3章 「美と用の100年史」 展示風景
会場には、モザイクタイル張りの浴槽も展示されています。多くの庶民が利用していた銭湯では、富士山などをモチーフにしたペンキ絵とともにタイルに染付を施した「タイル絵」が浴室を彩りました。

モザイクタイル張りの浴槽
タイルは美術的な側面からも楽しむことができます。
欧州のタイル製造技術を学んだタイル生産のメーカーは、英国で流行していたマジョリカタイルの複製品を商品化。国産のマジョリカタイルは、宮家邸宅などの洋館に使われましたが、その後は銭湯や遊郭、洋風店舗などの公共空間に使われ需要が拡大していきます。
大正中期にはモチーフやデザイン、色調を研究し市場を海外に求めるようになり、後に「和製マジョリカタイル」として今でも人々を虜にしています。

第3章 「美と用の100年史」 展示風景 マジョリカタイル
20世紀後半にはメキシコやアメリカで民主化が推し進められたことにより壁画運動が起きます。この運動は、世界的に注目され日本でも壁画などのパブリックアートがつくられるきっかけとなります。
画家・生沢朗により戦後初のモザイク壁画が米軍羽田空港ターミナルに設置されて以降、東郷青児原画による熱海の富士屋ホテル大浴場(1951年)など有名画家によるモザイク壁画が多く生まれます。岡本太郎が「太陽の神話」を読売アンデパンダン展に出品するなどタイルや陶板を活用したパブリックアートは広く普及していきました。

アートモザイクタイル画「裸婦像」 東郷青児/原画 1951年(昭和26) INAXライブミュージアム
江戸東京たてもの園の園内には、昔の商家・銭湯・居酒屋の復元建造物も楽しむことができます。展覧会の鑑賞後は、東京の銭湯を代表する「子宝湯」でモザイクタイルの施された浴室も味わうことができます。

江戸東京たてもの園 「子宝湯」
[ 取材・撮影・文:坂入 美彩子 2023年3月10日 ]