大阪のレガシーとして、今もなお強烈な存在感を放つ万博記念公園の「太陽の塔」。1970年の大阪万博で、その前衛的な姿は賛否両論を巻き起こし、時代の記憶に深く刻まれました。
「太陽の塔」はいかにして生まれたのか? 川崎市岡本太郎美術館で開催中の企画展「岡本太郎と太陽の塔―万国博に賭けたもの」では、岡本太郎の思想的背景を紐解きながら、その誕生の過程に迫ります。

川崎市岡本太郎美術館「岡本太郎と太陽の塔―万国博に賭けたもの」会場入口
展覧会の幕開けは、19歳でパリに渡った岡本太郎の足跡を辿ることから始まります。ピカソに衝撃を受け抽象絵画を志した岡本は、パリの前衛芸術の潮流の中で創作活動に没頭しました。 さらに、パリ大学で民族学を学び、人類博物館の展示やマルセル・モースの講義に深く感銘を受けます。このパリでの経験こそが、戦後の岡本の芸術と思想の礎となったのです。

第1章「民族学との出会い ーパリ時代の岡本太郎」
続く第2章では、戦後、日本文化の根源を求めて精力的に日本各地を巡った岡本の取材旅行と、旺盛な執筆活動に光を当てます。
縄文文化に強く惹かれた岡本は、『日本の伝統』『日本再発見』『神秘日本』などの著作を通じて、日本の風土に根ざす生命力を民族学的な視点から捉えようとしました。

第2章「人間の原点を求めて一取材旅行と執筆活動」
1967年、万博のテーマ展示プロデューサーを打診された岡本は、構想を練るべく世界を巡る旅に出ます。その旅の途上で、「太陽の塔」の独創的な造形が具体化し始め、メキシコでは、あの有名な壁画「明日の神話」の構想が生まれます。
「人類の進歩と調和」という万博のテーマに対し、文明批判的な視点をも持ち合わせていた岡本。「太陽の塔」と「明日の神話」という二つの巨大な作品は、同時進行で制作が進められました。

第3章「万国博前夜一『明日の神話』と『太陽の塔』」
展覧会の核心とも言えるのが、第4章「『太陽の塔』と地下展示」。大阪万博において、「太陽の塔」は地下・地上・空中の三層で構成されたテーマ展示の中心でした。地下には民族資料や仮面、神像などが配置され、人間の根源的な営みが表現されました。
本展では、昭和女子大学光葉博物館と武蔵野美術大学 美術館・図書館 民俗資料室が所蔵する民族資料を通して、当時の地下展示の異質な熱気を追体験することができます。

第4章「『太陽の塔』と地下展示」
開幕前には懐疑的な意見もあった「太陽の塔」でしたが、会期を通して来場者に強烈な印象を与えました。閉幕後の1975年には正式に保存が決定(それまでは撤去の可能性もあったのです)、現在も万博記念公園にその圧倒的な姿をとどめています。
そして、展示に用いられた民族資料は国立民族学博物館に収蔵され、岡本の遺志は形を変え、今も確かに息づいています。

第5章「万国博が残したもの」
パリでの学びから始まり、日本各地でのフィールドワーク、そして大阪万博での壮大な表現と、一貫して「人間とは何か」「生命とは何か」を問い続けた岡本太郎。時を経てもなお、その作品が放つエネルギーは衰えることがありません。
岡本太郎の魂の軌跡を辿りながら、「太陽の塔」に込められたメッセージを改めて感じ取ることができる展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2025年4月25日 ]