【開催にあたって 立命館大学国際平和ミュージアム 館長 安斎育郎】
先頃、被爆地・長崎出身の防衛大臣が「原爆しょうがない」発言で辞任する事件がありましたが、ニューヨークを拠点に活躍する飯塚国雄さんも長崎ゆかりの画家です。飯塚さんは、1971年の帰国に際して長年行方知れずだったお父さんを長崎に尋ねました。被爆者であるお父さんに長崎原爆資料館を案内された飯塚さんは大きな衝撃を受け、戦争の恐怖に身を震わせました。3年後、お父さんは「お前は何のためにアメリカに住み続けるのか?」と飯塚さんに問いを突きつけ、他界しました。お父さんの問いと原爆のショックを未整理のままに心に抱え込んだ飯塚さんは、問題の原点に戻って大作に取り組み、1985年に「災・ナガサキ」と「灰・ヒロシマ」を完成させ、核時代の恐怖と怒りを表現しました。以来、飯塚さんは、虐殺や自然破壊や原発事故や飢餓などの不条理に真摯に向き合い、印象的な作品群を生み出してきました。
今年は、日中全面戦争が始まり、南京虐殺事件が起きてから70年目に当たります。私は、この特別展「飯塚国雄絵画展-被爆した父への応え-」に展示された飯塚さんの作品を通じて、戦争の悲惨さ、愚かさ、不条理に向き合い、それらを克服するために何ができるかを考えたい-そう心に決めています。
特別展の開催にご理解、ご協力を頂いた飯塚国雄画伯、元京都学園大学の隅井孝雄教授、京都藝際交流協会の石田浄理事長に感謝します。
【『飯塚国雄絵画展-被爆した父への応え-』の開催によせて 2007年7月17日 ニューヨークにて 飯塚国雄】
この度、私の絵画展が京都の立命館大学国際平和ミュージアムで開かれる事となり、大変光栄に思います。前回1995年のニューヨーク国連本部ロビーで開かれた反核をアピールした個展から12年が過ぎました。今回の個展は会場も広く、より充実したものとなっています。
ところで、この12年間に世界は少しでも良い方向へと変わったでしょうか。この間にまず私のアトリエの目と鼻の先で起きた9.11テロ、世界貿易センターの崩壊は、私に大きな衝撃を与えました。この崩壊のイメージは、現代に生きる多くの人々の脳裏にとてもシンボリックなものとして残ることでしょう。それに続くアフガニスタン及びイラクでの戦争は、今でもその尾を引きずっています。世界中の飢えた人々の数は減ることもなく、環境問題も悪化し続けています。 j兵器もインド、パキスタン、イラン、北朝鮮と拡散しつつあり、私が27年前に「炎・ナガサキ」を描いた時よりもはるかに危険な状態となってきています。
これからの日本は、否応なしにもっとこれらの諸問題に巻き込まれて行くものと思われます。このような情況下でわれわれはいったいどうしたらよいのでしょうか。
画家である私は、1971年に長崎原爆資料館を訪ねたことがその契機となり、これらの問題を直視した作品を描くことによって、人々に訴えかけようと考え、この27年間描き続けて来ました。
私は、一人でも多くの人々がこれらの問題と真剣に向いあって、自分に出来る第一歩の行動を起こすことがとても大事なことだと思います。
この絵画展を通して、私のメッセージが多くの人々に伝わることを祈ります。